向谷地さんへの反論、というよりも

向谷地生良さんといえば、精神医療のみならず障害者福祉の領域では超有名な「べてるの家」の支援者である。僕も当事者研究から多くを学び、毎年のようにゼミ生にも紹介している。師匠大熊一夫にくっついて、何度か浦河を訪問し、いろいろお話を伺い、臨床家としても尊敬している一人である。

その向谷地さんのインタビューを読んでいたら、気になる部分が出てきた。少々長くなるが引用したい。
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ーオープンダイアローグは、精神科病院をベースにしたシステムでは出来ないだろうという意見もありますが。
向谷地 それは逆で、全く可能だと思います。
ー現状の日本のシステムでも?
向谷地 この連載第一回で紹介したように、私は今全国3カ所の病院にお邪魔して、長期入院で治療やケアに一番困っている統合失調症の患者さんを紹介してもらって、スタッフといっしょに当事者研究のスタイルで患者さんとミーティングをしているんですけど、2年ほどのかかわりで、3人中2人が退院にこぎつけました。
 そこで思ったのは、その人達は、もちろん病状が悪くて退院できないわけですけど、それ以上に自分の人生に行き詰まっている人たちなんだと。彼らが退院する時にも、幻聴さんや妄想的な気分はそんなに変わっていないんです。むしろ当事者研究で話し合うことで、そういうところをかかえながら生きていこうとする土台ができていった。そんな気がしているんです。
(略)
 こういうふうに、幻聴や気分は変わらなくても大丈夫で退院できる人たちとの出会いって、現場の人間を励ましますよね。だから今の精神科病院の現場にこそ、オープンダイアローグ的なアプローチが求められている気がしますね。
(精神看護19(5)455-456)
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これを書き写していて、向谷地さんへの反論、というよりも、インタビュアーの「問い」への反論がしたいのだな、と気がついた。
ちなみに、「オープンダイアローグは、精神科病院をベースにしたシステムでは出来ないだろうという意見」を東大のセミナーで去年発表したのは、他ならぬ僕である。また「現状の日本のシステム」ではダメだ、と発言したのも、僕である。まず、僕自身の意図を表明した後、それに対しての向谷地さんのリプライを、僕なりに考えてみたい。
まず僕自身が「現状の日本の」「精神科病院をベースにしたシステム」では「オープンダイアローグ」が出来ないと思う根源的な理由。それは、圧倒的なマンパワーおよび基礎教育の違いである。そのことに関して、この5月に東京で開かれたオープンダイアローグのワークショップ時に書いた拙稿では、次のように整理していた。
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ケロプダス病院では、30人の病床(見学した時の入院者は20人で病床削減の計画もあり)に39人の看護師が働いています。1:1以上の人手がないと、上記の条件をクリア出来ないのです。あなたの病棟では、どのような人員配置基準で、何人の看護師が働いていますか?
つまり、病棟であろうがなかろうが、対等な人間関係を指向し専門家主導から当事者主体へと生まれ変わるための専門職の覚悟と、不確実な「対話」に柔軟に対応するために十分な人手を確保しトレーニングを積むことが出来る組織改革とが、日本の現場でオープンダイアローグを実践する上で問われていると、私は思います。
(竹端寛「日本の現場でオープンダイアローグを実施するための条件」)
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さて、このスタンスを示した上で、向谷地さんの発言を読み解いていきたい。
向谷地さんの仰るように、「長期入院で治療やケアに一番困っている統合失調症の患者さん」は、病状「以上に自分の人生に行き詰まっている人たちなんだ」というのは、僕も全くその通りだと思う。これはトリエステでも言われ続けてきたことである。また、「当事者研究で話し合うことで、そういうところをかかえながら生きていこうとする土台ができていった」ことにより、向谷地さんが関わった「3人中2人が退院にこぎつけ」たことも、頷ける。向谷地さんの実践そのものにケチをつけるつもりはないし、良い仕事をしておられるのだと思う。
ただ、気になるのは、「なぜ、向谷地さんが出かけないと退院できなかったのか?」という問いである。向谷地さんが訪問する以前のその患者さんには、なぜ「治療やケアに一番困っている統合失調症の患者さん」というラベルが貼られていたのか? そのラベルにその病棟のスタッフは疑問を抱かなかったのか? そして、なぜ向谷地それさんだけが、その病院の因習を突破して、「それ以上に自分の人生に行き詰まっている人たち」とラベルを貼り替える事が出来たのか?という問いである。
僕は、ここにこそ日本の「精神科病院をベースにしたシステム」の「まま」ではオープンダイアローグが実現「出来ない」と思う理由が詰まっていると考える。
簡単に言えば、目の前の患者さんに対するモノの見方を変えることなく、単にオープンに話し合いましょう、なんてやっても、患者と家族、支援者の関係性は変わらないのではないか、という問いである。精神科の一般病棟は3:1の基準である。ケロプタス病院の3分の1以下、である。そのような中で、従来の医学モデル的な看護スタイルで「病気や症状を診る」ことを重視している看護スタッフが、病気や症状と直接関係ない(と一見思える)「自分の人生に行き詰まっている」内容を、ちゃんとそのものとしてじっくり聞けているか、という問いである。向谷地さんのような、「治外法権的な外部者」がやってきて、「当事者研究」という触れ込みで介入できたからこそ、やっとその人の「本当の困りごと」が病棟内部であってもみえてきた。それを、「では皆さんもどうぞ病棟でやってください」と言われても、そう簡単に病棟の因習は変わらないのではないか。そう疑っている。
「今の精神科病院の現場にこそ、オープンダイアローグ的なアプローチが求められている」という点については、僕自身も同意する。でも、今の「精神科病院をベースにしたシステムでは出来ない」とも思う。それは、以前のブログにも書いた一言に収斂する。
「本当に精神病院の中でオープンダイアローグをしようとするなら、『その矛盾を社会ネットワーク全体の問題とみた上で、その関係性の不全に踏み込む』なら、精神病院という構造の『矛盾』をも、自由に話すことが出来なければならない。」
僕が「今の精神科病院の現場」にまず求めるのは、「オープンダイアローグ的なアプローチ」を真面目に実現する為の「専門職の覚悟」と「組織改革」である。向谷地さんは、浦河の地で、何十年とかけてその二つを実践してきた。それが、今の病棟現場にできるのだろうか? そこが、最大の疑問である。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。