「ダメなあいつ」は絶対ダメ!

勅使河原真衣さんの『働くということ—「能力主義」を超えて』(集英社新書)を読む。前著『「能力」の生きづらさをほぐす』は子どもたちへのバトンという形態を取りながら、ご自身の実存的苦悩も最終章に織り込んだ作品だったが(そのことはブログにも書いた)、今回はコンサルタントとして向き合ってきた組織開発の話をガッツリ書いておられる。その中で、ほぉと思ったことがあった。

「『使いやすい』『部内の雰囲気』『いい人』『ややこしい奴ら』・・・など、すべてそうなのです。誰から見た、何の話なのでしょう。職場においてこれらの『評価』を下す組織の構造を、対話や観察の時間をいただき、つぶさに調べていきます。ある組織の現状のダイナミクス(力学)を明示した上で、これから組織が達成したい・すべきことに合わせて、変えるべき点はどこか? 改革するためには現状の組織力学のうちどの点をいじるとよさそうか? を示し、ディスカッションを深めていくのです。
話者が解釈や意図を持って使っている表現を、問いを通じて手繰り寄せ、話者が見ている世界観を理解した上で、解釈の溝を埋めていく・・・」(p99-100)

この表現を読みながら、これって僕がしていることとも近いな、と感じていた。

ぼく自身、たまに色々な人や組織から相談案件が持ち込まれる。その際、相談する側も、なぜどのように僕に相談していいのかわかからない、という、非定型な相談ばかりが、僕のところに持ち込まれる。相手もよくわかっていないのだから、僕も解決策なんて知るよしもない。だからこそ、僕に出来ることは、勅使河原さんが言語化してくださっているように、「話者が解釈や意図を持って使っている表現を、問いを通じて手繰り寄せ、話者が見ている世界観を理解」することだけ、なのだ。ただそれをしているうちに、おぼろげながら、「ある組織の現状のダイナミクス(力学)」が見えてくる。すると、「これから組織が達成したい・すべきことに合わせて、変えるべき点はどこか? 改革するためには現状の組織力学のうちどの点をいじるとよさそうか?」という問いも自ずと生まれてくる。

例えば社協職員が動かない、という主訴で来談された市役所職員の方に、よくよく話を聞いていくと、市と社協の上下関係の構造的矛盾に話が転化したこともある。あるいは、部下が思うように働かないという所長の話を聞いているうちに、その機関で「すべきこと」と、職員達が「したいこと」にズレが生じていることが見えてくることもある。「何を問題だと当人が『語っている』のか?」(p98)に耳を傾けながら、ご本人の世界観と解釈している組織のダイナミズムのズレのようなものを探しだし、そこからどう介入していくのかを探ろうとしている。

それを無意識・無自覚にやっていたので、彼女によって言語化されると、「ああ、そういうことだったのか」と深く納得する。

そしてこの本の肝だと僕が感じるのは、以下の部分だ。

「次第に、その所長は『優秀』な奴を『選ぶ』、できる奴だけ育てる、というような感覚から、自分のモードを『選ぶ』ことで、どんなメンバーも活躍させることができることを体得しました。」(p171)
「ダメなあいつをどうしようか?という問いは、俺がどう采配するか?に変える事で初めて問題解決へのスタートラインに立てる、と」(p181)

「あいつはダメだ」とジャッジする際、無意識で無自覚な前提として、「おれはイケている・大丈夫だ」という価値前提がある。平たく言えば、You are worng!と言う当の主体はI am right.を当然の価値前提にしているのだ。そして、「自分は正しい、お前は間違いだ!」と言われた方は、非常に不快な気分になるし、その人の発言は、例え上司や査定者であっても、聞きたくない。だからこそ、うまくかみあわない。

これは僕の慣れ親しんだ領域で言えば、支援者と対象者、先生と生徒、多機関連携なんかでもしばしば聞かれる現象である。支援者や先生が、対象者や生徒の「問題行動」を指摘する際、対象者個人が「問題がある」と無意識に認識している。でも、家族療法で言われているように、人と問題は分けて考える必要があるし、人から問題を離す(問題の外在化をする)必要がある。その人そのものが問題なのではない。そうではなくて、その人が問題とされる言動をしているのは、どのような背景や構造があるのか、を探っていく必要があるのだ。「ダメなあいつをどうしようか?」という視点では、いつまでもダメなままなのだ。

その際、支援する・選ぶ・教える側(する側)が、「自分のモードを『選ぶ』」ことが本質的に大切だ、と勅使河原さんは指摘する。「ダメなあいつをどうしようか?」という問いを抱えている間は、相手の問題点ばかりが目につく。だが、当の相手は、自分が攻撃されていると思うと、防御に回り、うまくいかない。その際、「ダメなあいつ」とダメとあいつを同一視することをやめ、あいつがダメな状況にいるのはなぜか、どのようなプロセスでダメな状況に陥っているうのか、その状況を変えるために、「俺がどう采配するか?」と問いを変えることによって、状況は動き出すという。

相手が「ダメな状況」に陥っているのを私がわかっている(=俯瞰的に見れている)のに、その「ダメな状況」を「ダメな奴だ」と批判しているだけでは、支援する・選ぶ・教える側(する側)としての「仕事をしていない」ことになる。そうではなくて、「ダメな状況」からどうすれば脱することが出来るのか、その人がより良いパフォーマンスをするために、どのように環境設定を変えればよいのか、と問いを変え、そのために、する側がもっている裁量権や采配を活用して、文脈を変える支援が出来るか、が、他ならぬ「する側」にこそ、問われているのである。

そして、そういう視点は、教育でも必要不可欠だ、と勅使河原さんは述べる。

「どの子もその子の合理性のもと、ある種の生存戦略を持って、生活しているわけですから、そうした本人からのアウトプットを何はともあれ一旦引き出すことこそ、いの一番で行うべきことではないでしょうか。相手の口を塞がないこと—これが、以外に思う方もいるでしょうが、社会構成員を要請すると謳う者(=教育)が担うべき基本所作であると思うのです。」(p214)
「『行儀が悪い子』『言うことを聞かない子』など、個人に評価を下すのは容易ですが、その人の在り方は、環境に大きく左右されています。環境に対するある種の合理性が必ずあると言い換えることもできる。『コラ!』の前に、『左手さぁ、どうかした?』と一言尋ねることができたらどんなにいいことか。それも鬼の形相で、はなく。『働くということ』の大大大大大前提について、そんなことも思います。」(p215)

支援する・選ぶ・教える側(する側)が、「やってはいけない・許されない」と認識している何かを、支援される・選ばれる・教えられる側(される側)がしている。その時に、問答無用に注意・叱責することを、する側はしがちである。でも、それは一番してはいけないことだ、と勅使河原さんは言う。なぜなら、それは「相手の口を塞」ぐことになるから。そして相手の口を塞ぐことは、する側とされる側が非対称性になり、する側がされる側を一方的に支配する権力関係になるから、である。

「やってはいけないこと(許されないこと)」を叱らないのは、甘やかしているのではないか?

真面目な「する側」の人は、そう感じるかも知れない。勅使河原さんも、甘やかしていい、などとは言ってはいない。そうではなくて、「問題行動」であったとしても、「その子の合理性のもと、ある種の生存戦略を持って、生活しているわけですから、そうした本人からのアウトプットを何はともあれ一旦引き出すこと」が大切なのだ。『行儀が悪い子』『言うことを聞かない子』と「する側」が査定や批判をする前に、本人の言動の背景にある「環境に対するある種の合理性」を理解する為にも、「『コラ!』の前に、『左手さぁ、どうかした?』と一言尋ねること」が根本的に必要なのだ。

そして、これはインクルーシブ教育を進めた大空小学校の初代校長の木村泰子先生の箴言とも一致する。

「お母さんが子育てで困ったら、次の三つの言葉を子どもに尋ねてみて。
『大丈夫?』
『何に困っている?』
『私にできること、ある?』」

「する側」が「される側」の「困った現象」に出会った時に、「相手の口を塞がない」ために、必要な三段階が書かれている。まずは、叱責する前に「大丈夫?」と本人のことを気にしていることを伝える。その上で、「何に困っている?」と本人がどのような理由でそのような現象をしているのかの理由や合理性を伺う。そして情報を集めた上で、「私にできること、ある?」と「する側」が具体的に協力できそうなポイントを探るのである。それこそが、「「ダメなあいつをどうしようか?という問いは、俺がどう采配するか?に変える事で初めて問題解決へのスタートラインに立てる」という勅使河原さんの指摘の本質的な意味でもある。

この本は、能力主義に根本的な問いを挟んでいるが、「働く」現場で、それ以外の価値をどう見いだしたら良いのか。

「『競争』が必要な構造があったから、人は足を引っ張り合ってしまう。他方でここには、そんなことをするインセンティブすらないわけです。やるべきことは、周りを蹴落として上に行くことではなくて、『自分はこういう思いで、こういうタスクを抱えている。ここまではやれているけど、あとこの部分についてインプットが欲しい』とかって、プロアクティブ(前のめり)に求め合うこと。個人の『有能さ』を追い求めると、周りに『助けてー』とか、『知恵を貸してー」と言うのって気が引けますが、この組織体制のもとでは全然苦しいことじゃない。ひとたび自分の中の仕事観が変わって、選ぶべきは自己のモードなんだな、って腹落ちして初めて、仕事が楽しくなりました。」(p193-194)

会社内や学校内という狭いコミュニティの中で競争が必然とされると、足の引っ張り合いやいじめなどが起こりやすい。それは、個人の問題ではなく、個々人を能力に急き立てるインセンティブを持ち込んだ組織構造の問題なのである。だからこそ、組織自体が、そのような構造化から距離を取ることができるか、が問われている。「個人の『有能さ』を追い求める」と「周りを蹴落として上に行くこと」が横行し、組織内での連携や協働はうまくいかない。であれば、「周りに『助けてー』とか、『知恵を貸してー」と言うのって気が引けますが、この組織体制のもとでは全然苦しいことじゃない」という組織風土をどう作れるか。「プロアクティブ(前のめり)に求め合うこと」こそ重要だ、と組織が所属する個人にどのように要請できるか。それが、問われているように思う。

そういう形で組織変容をしていくなかで、「ひとたび自分の中の仕事観が変わって、選ぶべきは自己のモードなんだな、って腹落ちして初めて、仕事が楽しくなりました」と個人の変容が実現されるのだ。つまり、「ダメなあいつをどうしようか?」という蹴落としモードの問いを「する側」は封印して、「俺がどう采配するか?」と「選ぶべきは自己のモードなんだな」と「する側」が気づき、組織風土を変えて行く。これが、「される側」のパフォーマンスの最大化にとって、結果的には鍵になるのだ。

他人を変える前に、己自身の足元を見つめ直し、まず自分が変わる。

「他人と過去は変えられない。変えられるのは自分の未来だけ」

この言葉を具体的に組織開発の言語で整理して下さった名著だった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。