昨年末に共同通信から依頼されて、立岩真也さんの新著『不如意の身体』の書評を引き受けた。年末年始の休みの間に読めば良いと思っていたのだが、読み始めたら、まあ手強い内容。立岩さんは実に論理的な文章を書くのだが、その森に深く分け入るような論理展開についてくのは、そう簡単ではない。僕の研究室には、途中で挫折した本も何冊もあるし、そうなりそうで「積ん読」の本もある。今回も、確かに簡単な本ではない。さてどうしたものだろう。
そう思った時に、掲載されるメディアである地方紙の読者を思い浮かべた。読書欄は気にしていたり、あるいは本屋にはたまに出かけて、立岩さんの名前は知っている。でも、きっと僕と同じで、最後まで読み終えられなかったり、難しそう、とそっと書棚に戻したり、買ったけれども積ん読のままの人だったり、そもそも手に取らない人も多いのかもしれない。
そうか、立岩さんの本の内容とがっぷり対峙した評論を書く必要もないし、そういう分量もないし、そもそもそれが求められてている媒体ではないのだ。しかも、立岩さんの本をすっと読める人は、僕の書評など見なくても、すでに買い求めているはずだ。であれば、僕の仕事は、気になるけど手に取ったことがない・買うのを逡巡している人に、この本を手に取ってもらうための紹介文を書けばよいのだ。それなら、僕でも書けるかもしれない。そう開き直った。
で、不思議なもので、開き直ってみたら、スルスルと文章が出てきて、読むのは時間がかかったのに、数時間で書き終えることができた。そして、上記の戦略が功を奏したのか、琉球新報の1月13日版をはじめ、多くの地方紙で1月中旬に掲載されたようだ。
というわけで、少し時間がたったのだけれど、その文章を転載しておきます。
能力主義への大胆な抵抗
本書の主張は極めてシンプルだ。病や障害と共にある社会において、なおすこと、できるようになることが、無条件で良いとは言えない。できる・できないに関わりなく生活ができるようにするとよい。本当はあなたができなくてもたいして困りはしない。何がどのように要るのかを考えるのが規範理論としての社会科学の仕事だ。
立岩はこのことを、できない・なおらない存在である障害者運動との出会いを通じて考え続けてきた。能力主義によって一元的に序列化される社会、なおらないなら安楽死をも肯定されうる社会への強烈な異議申し立てを行い、できなくても、なおらなくても、他者がおぎなうことで暮らせたらそれでよいではないか。そう訴えかける。
彼は極めて論理的にものを考え、著述している。だが、その論理は複雑に入り組み、ウネウネと蛇行し、丁寧に読み込まないと途中で遭難しそうになる。本書に限らず、独特の文体の膨大な著作が「立岩連峰」のようにそびえ立つ。評者は何冊も彼の著作にアタックしては、挫折した苦い経験を持つ。だが今回の著作は、やっと読(踏)破できた。
評者のような「立岩連峰」初心者・落伍者には、第Ⅲ部から読み始めるのをお勧めする。彼が他の編者の依頼を受けて書いた文章ゆえに、立岩の中心的主張がギュッと詰まっている。冒頭の要約もそこから拾ってきた。
立岩はなおる・できる=善いこと、という等式に丁寧かつ大胆に抗う。その等式を信奉する側の数多の反論や批判と真正面から対峙して議論を進める。自ずと言及すべき論点は増える。彼が既に検討した内容も、親切にそれを提示しながら辿る。立岩流の意を尽くした文体は、それ故、一般読者には不如意な文体に映る。
だがこの構造を頭に入れた上で本書を読み進めると、立岩が何に怒り、何を伝えたくて、本書を書き上げたのか、を真っ直ぐ受け取ることが出来る。時間をかけて、再度読破したい山である。