対話とハラスメントの違い

ここ最近、対話とハラスメントの違いについて、考えさせられる案件が色々ある。

例えば香港で続くデモ。雨傘運動以来のリーダーの一人で、1996年生まれのアグネス・チョウさんは7月2日の朝日新聞朝刊に、こんなメッセージを寄せていた。

「デモ隊にリーダーがいないことも今回の特徴で、若者達がネットの匿名の呼びかけに応じて自発的に参加しています。政府は対話の相手がわからず困っているはずですが、対話しても意味がありません。市民の意見を聞いたとアリバイづくりに使われるだけ。これも雨傘運動の教訓です。」

僕はダイアローグを大切にしているが、でも今回のアグネスさんの主張も本当によくわかる。対話はお互いが相手の言葉を真剣に受け止める態度があって、初めて成立する。一方が聞く耳を持たず、相手を抑圧する主体であれば、それに対して決然とNOを突きつけることが、対話的主体と相手に認めさせるために必要不可欠である、と。

アリバイ作りの対話は、一方的な抑圧と同様、モノローグである。ちゃんと相手の意見に誠実に耳を傾ける主体に変容しない限り、対話は対話として成り立たない。このことに、香港人は怒っているし、強烈な反発と抗議をしているのだ。

もう一つ、今野さんと藤田さんの新刊の「挑発的」書き出し。

「近年、日本では『対立』や『対決』を避ける世の中の風潮がある。社会運動による要求行動や労使紛争は、社会・労働問題を解決しない、あるいは問題を複雑化する『厄介者』のように扱われがちである。何かの不正を批判したり、具体的な権利要求をしようものならば、『エビデンスはあるのか』、『全体の調整を考えていない』、『社会の分断を招く』などの非難にさらされる。」(『闘わなければ社会は壊れる』岩波書店

この本に関して、ダイアローグを大切にしたい僕の知り合いソーシャルワーカーから、こんなコメントも寄せられた。

「『戦わなければ壊れる』や、『対決』が必要だ!という思いに、ある意味納得しつつ、対決ではなく『対話(対話的に生きる)』を実践していく中で、対決と対話をどうコミュニティワーカーとしての実践に整理してばいいのか、と思っています。」

アグネスさんや今野・藤田さんが否定しているのは、「対話」ではなく、「対話のふりをしたハラスメント」である、とすると、話が伝わりやすい。それはいったい、どういうことか。少し長い引用をする。

「ここに、AとBという二人の個人がいるとしよう。二人が相互に学習過程を作動させており、『仁』の状態にあるなら、Aの投げかけるメッセージをBは心から受け止めて自己を変革し、そこから生まれるメッセージをAに返し、Aもまた同じ事をする。このとき両者の間のメッセージの交換は『礼』にかなっている。また、このときAとBとがそれぞれに解釈して把握する意味は、常に互いに異なっている。
(略)
これに対して、Bが『不仁』の状態にあるとしよう。すると、Aの投げかけるメッセージをBは表面的にのみ受け取り、学習することなく、それでいて学習のフリだけをして適当にBに返す。Aはそれを真剣に受け取って学習し、メッセージを返すのだが、それをBはまた適当に受け取って返す。こういうことを繰り返されると、AはBについての適切な像を描けなくなり、自分の学習過程への信頼を破壊されてしまう。こうしてAもまた学習過程を停止し、『不仁』の状態に陥る。」(安冨歩『生きるための論語』ちくま新書、p103-104)

安冨先生の明快な解説からわかるように、対話とは『仁』の状態が前提とされており、『不仁』の状態であれば、対話とは言わない。そもそも対話とは「Aの投げかけるメッセージをBは心から受け止めて自己を変革し、そこから生まれるメッセージをAに返し、Aもまた同じ事をする」という構造がAとBの双方になされていなければならない。つまり、互いが相手の投げかけるメッセージを心から受け止めて、自己変革し、それを相手に投げ返す、というプロセスこそが、対話なのである。それを安冨先生は「学習過程」である、という。

一方、このAとBの相互の学習過程が働いていない「不仁」の状態であると、どうなるだろうか。Bが「学習のフリ」だけして、Aの発言を真剣に受け止めずに、適当な返事しかしない。でもAはそれを真剣に受け止めてメッセージを返す。この悪循環が続くと、「AはBについての適切な像を描けなくなり、自分の学習過程への信頼を破壊されてしまう」という。そう、どちらか一方が、学習過程に身を置いているのに、もう片方が「学習のフリ」をし続けて、相手の学習過程を破壊することを、安冨先生は別の本でハラスメントだと定義している。

「相手をパッケージ化して、そのパッケージに対する働きかけを現実に存在している相手に対して行うのは、ストーカー行為と同じ悪質さを持っている。自分が勝手につくり出したイメージを他人に押しつけた上で、そのイメージに対してメッセージを投げかけるという行為は、相手の人格への攻撃以外のなにものでもない」(安冨歩・本條晴一郎『ハラスメントは連鎖する』光文社新書、p177)

アグネス・チョウさんや今野さん、藤田さんの発言を読んでいて、僕自身が受け取ったのは、「対話のフリ」をしたパッケージ化やハラスメントからの決別宣言であった。何かがおかしい、許せない、と感じた時に、声を挙げる。これ自体は「仁」の行為である。それに対して、「『エビデンスはあるのか』、『全体の調整を考えていない』、『社会の分断を招く』などの非難」は、相手の声を聴いているフリをして、実は聴いていない。「相手をパッケージ化して、そのパッケージに対する働きかけを現実に存在している相手に対して行う」行為そのものである。パッケージとして捉える時点で、「Aの投げかけるメッセージをBは心から受け止めて自己を変革し、そこから生まれるメッセージをAに返」す、というプロセスを停止している。つまり、BはAのメッセージに対して、心から受け止めることなくパッケージ化して受け止めることで、学習過程を働かせることなく、むしろAの学習過程を破壊することにエネルギーを注ぐのだ。これこそ、ハラスメントなのである。

僕は昔、アカデミックハラスメントを受けたことがある。だが、それを受けている当時、「僕が悪いことをした」と感じ、よもやハラスメントをされているとは思ってもみなかった。確かに最初、僕がした間違いをしたのだが、何をどのように謝っても許してもらえず、無視され、「あなたのような弱い人間は大学院を辞めてしまえ」と罵倒された後、その教員の車を見るだけで、怖くなって校舎に近づけない時期が合った。あのときは、対話が全く通じず、対話的な関係を否定されることで、僕という個人の学習過程そのものが破壊されていくプロセスでもあった。そして20年たって振り返ると、あの当時、相手が僕に対して行ったことは、「勝手につくり出したイメージを他人に押しつけた上で、そのイメージに対してメッセージを投げかけるという行為」であり、「相手の人格への攻撃以外のなにものでもな」かったのである。

この経験があるからこそ、「対話」と「対話のフリをしたハラスメント」の違いは、今ならよくわかる。そもそも「対話のフリをしたハラスメント」をする人って、対話をする気がないのだ。「Aの投げかけるメッセージをBは心から受け止めて自己を変革」する気がないのだ。非正規労働者が賃上げを要求しても、「この経済状況では無理だ」と最初から決めつけて聞く耳を持たない。香港の市民や学生達が中国政府の圧力にNOを言っても、「今の香港では北京の意向に従わざるを得ない」と、諦めた答えしか返ってこない。これらは、「いやだ」「何とかしてほしい」というAの心からのメッセージに対して、学習過程を作用させることなく、「そんなことを言っても何も変えることは出来ない」「お花畑の理想論であって現実には無理だ」という結論を最初から決めつけ、決めつけたパッケージに対しての返信しか行わない、という意味で、人間的な対応ではない。そして、アグネス・チョウさんや今野さん、藤田さんが「対話」ではなく「対立」や「対決」の重要性を説くとき、彼女や彼らは、「対話」を否定しているのではない。むしろ、ほんまもんの「対話」空間に相手を引き出すために、「対話のふりをしたハラスメント」を断罪し、「対立」や「対決」も辞さない覚悟を示すことで、「パッケージ化」した相手の硬直性を打ち破ろうとしているのである。

ここまで書いていくと、僕が学んだ障害者運動のあの有名なテーゼの現代的意味も理解出来る。

「一、われらは、問題解決の路を選ばない。
われらは、安易に問題の解決を図ろうとすることが、いかに危険な妥協への出発であるか身をもって知ってきた。われらは、次々と問題提起を行なうことのみが、われらの行ない得る運動であると信じ、且つ、行動する。」
日本脳性マヒ者協会全国青い芝の会行動綱領

青い芝の会の障害者達が40年前に突きつけたこの行動綱領。「安易に問題の解決を図ろうとすること」とは、「対話のフリをしたハラスメント」に応じることだ、と現代的に解釈も出来る。それは、学習過程の破壊という意味で、「危険な妥協への出発」でしかない。なぜなら「パッケージ化」される段階で、相手の結論は決まっていて、それをどう相手に飲み込まさせるかという「危険な妥協」しか、道はないからである。

「次々と問題提起を行なうこと」は、「対立」や「対決」を辞さないことである。これは、結論ありきの相手にとっては、非常に面倒である。そこに一定の理があった場合、下手をしたら自らの結論そのものの正当性が、第三者によって問われかねない。これはパッケージ化の瓦解である。実に恐ろしい。だからこそ、「『エビデンスはあるのか』、『全体の調整を考えていない』、『社会の分断を招く』などの非難」をして、火を消そうとする。対話をすることは自らの変革の必要性に向き合う必然性が出てくるし、それは大変なので、相手の学習過程を破壊するハラスメント的言説だけを必死で返している。それが、「対立」や「対決」への違和感として表明される内容である。

そうすると、「対立」「対決」ではなく「対話」を、という発言自体の正統性も、問わなければならない。こういう言説自体の中に、「安易に問題の解決を図ろうとすることが、いかに危険な妥協への出発であるか」という根本的問題がはらんでいる可能性があるのだ。そして、以前の、ハラスメントを鵜呑みにしていた時代の僕は、「安易に問題の解決を図ろうとすること」こそ「対話」だと思い込んでいた。

「対話のフリをしたハラスメント」から抜け出すためには、40年前のテーゼが今日的にも役に立つ。

「次々と問題提起を行なうことのみが、われらの行ない得る運動であると信じ、且つ、行動する」

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。