「他人と比較しない」は可能か?

ネットでその存在を知り、久しぶりに一気読みした本がある。『スウェーデンの保育園に待機児童はいない』(久山葉子著、東京創元社)である。

本好きの人なら、どうしてミステリの出版社からスウェーデンの保育の本を?という問いが出るだろう。久山さんはスウェーデン小説を同社から翻訳していて、スウェーデンに家族で移り住んだので、今回こういうエッセイ本をミステリ出版社から出したのである。僕もスウェーデン在住時に何人かの翻訳・通訳家にお世話になったのだが、優れた翻訳や通訳は母国語(=日本語)でどれほど読み書いてきたか、の差でもあると痛感した。久山さんのような翻訳をこなす力量ある人が実体験したスウェーデン社会を教えてくれると、すごく色々な事が理解出来る。彼女と同い年ということもあり、共感しながら読み進めていくと、引用したい箇所がいくつも出てきた。その中でも、一番考えさせられたのが、次の部分。

「国が定めている就学前学校の教育指針のことだ。その中で、保育の”目的”として掲げられているのが次の五点である。
就学前学校、子供ひとりひとりがこれらの能力を発達させることに努めなければならない。
・寛容さ、敬意、連帯感、責任感
・他人の状況に配慮したり、共感したりできる能力。そしれ、他人を助けたいという気持ち
・日常に存在する生き方への課題や道徳的ジレンマに気づき、自分で考え、意見を持つ能力
・性別、民族、宗教等の信仰、性的指向、障害にかかわらず、人間には全員同じ価値があるということへの理解
・生きるものすべてへの敬意と、自分の周囲の環境に対する配慮
この保育指針は、スウェーデン人が理想とする人間のあり方をそのまま表している気がする。いたるところで-特にあらゆる年齢の教育現場で-これら5つの点が重要視されているのを常々感じるからだ。」(p129-130)

僕も15年前、スウェーデンに5ヶ月暮らす中で感じていたスウェーデン人の価値観を体現するような、「保育指針」。そりゃそうだ。小さいうちにこの価値観を全ての子供達に伝えることが出来たら、大人になっても体罰をしない国になる。スウェーデンの体罰をしない子育ては、色々なウェブでも紹介されているが、その源流を辿ると、この保育指針があるのか、と理解することができた。

日本の教育機関で働いていて、最近強く感じるのが、若者達の自尊心の低さである。自分に自信がない、自分に価値がない、と思う若者が少なくない。その一方で、親や学校の求める規範の呪縛力は強く、同調圧力もきつく、18歳くらいになると、「良い子」ほど、他者評価に過度に適応したり、怯えたりしている。スウェーデン人の子供が、日本人よりもともと優れているわけではない。社会との相互作用の中で、自信を持ったり、自信が奪われたりするのである。そして、スウェーデン人の自尊心のよりどころは、この保育指針にあったのだ、と感じる。

「性別、民族、宗教等の信仰、性的指向、障害にかかわらず、人間には全員同じ価値があるということへの理解」

サラッと書いているが、すごく重い。久山さんはその例として、「先生も親も『男の子でしょ、泣かないの』とか『女の子なんだからもっと・・・』という言い方は決してしない」(p131)という。僕自身は、娘を育てていても幸い「女の子なんだから」というフレーズを使ったことはないが、次の箇所は同じ子育てをする親として、耳が痛い話だ。

「『○○くんは××なのに』というような、人と比べる言い方もタブーである。同じく、『お兄ちゃんなんだから』『もう○歳なんだから』といった世間の平均値を基準にした発言もしない。子供の個性を認める育て方をするのなら、その子のみを見つめるべきであり、他人との比較はやってはいけないことなのだ。」(p165-166)

「子供の個性を認める育て方をするのなら、その子のみを見つめるべきであり、他人との比較はやってはいけない」。その通り、と頭ではわかっているのだが、一人の親として、気がつけば、同年代の子供と比べて成長の度合いを気にしている僕がいる。乳離れやおむつ外れ、など、出来ている・出来ていない、だけでなく、言葉がどれくらい話せるか、など。そして、それは僕自身が、学校教育や塾・予備校システムの中で、偏差値で常に他者と比べられ、その偏差値システムを内面化し、自分や他者の学歴や出身校などを序列化するシステムに否が応でも「被爆」してきた日本社会での「良い子」だったからだ、と、久山さんの本を読んでいて、改めて気付かされる。「世間の平均値」や「他人との比較」の枠組みこそ、同調圧力のきつい日本社会において、21世紀の今でも強固な枠組みだから、である。

だからこそ、「性別、民族、宗教等の信仰、性的指向、障害にかかわらず、人間には全員同じ価値がある」というのは、すごく重い。いかなる差異があろうとも、「人間には全員同じ価値がある」ということを、社会の基礎にしようとする思考・志向が、すくなくとも国の教育理念に掲げられているのです。「他者にやさしくしましょう」なんていう生やさしいものではない。あなたと違う他者も、あなと同じ価値があることを認めましょう、ということである。つまり単一の基準での序列化をしないでおきましょう、ということでもあるのだ。実際、スウェーデンでは「入学試験や成績別クラスなど、子供を成績で振り分けるようなことは禁止されている」(p166)という。

この本では、他にもスウェーデンでいかに育児休業が取りやすいか、だけでなく、労働者の権利が護られているか、ということも詳しく書かれている。残業がなく、子供と共に過ごせるのが当たり前だから、「ママ友」とつるまなくても、パートナーと相談することがデフォルトになっていることや、男性の育児分担がそれほど当たり前になっていることなども、書かれている。こういう話の一部分を、僕も授業ですると、必ず学生から来る反論としては「人口が少ない(税金が高い、権利意識や法制度が違う・・・)スウェーデンだから出来るのであって、日本では無理だ」という「出来ない100の理由」が返ってくる。

確かに、国やシステムを変えることは、簡単ではない。でも、「世間の平均値を基準にした発言もしない」「その子のみを見つめるべきであり、他人との比較はやってはいけない」ということなら、個人レベルでも、今日からでも「出来る一つの方法論」だ。僕は娘に良い影響を与えたいと思っているし、「子供の個性を認める育て方」をしたいと願っている。であれば、「世間の平均を基準」にする論理を内在し、「他人との比較」をしょっちゅうしてしまう、その自分自身の価値規範に自覚的になって、少なくとも娘にはそれを当てはめない、ということが、今の僕に「出来る一つの方法論」だと感じた。

ちなみにこの本は娘さんが保育園を終えた段階で一冊が終わっている。おそらくこの本が売れたら、第二弾の小学校編も久山さんは狙っておられるのだろう。一読者として、是非この本は売れてほしいし、第二弾を読みたい、と強く願っている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。