合気道における機能美

合気道の岡本洋子師範の著書『武道は世界を駆け巡る』(あいり出版)を読む。この時期合気道が出来ないままなので、たまたまYoutubeを見ていたら、岡本師範の動画を見つけて、釘付けになり、買い求めた。彼女はフランスやアメリカで生活をしていたこともあり、世界各国で合気道を教えている。たまたま見つけたブラジル合気会の稽古動画の冒頭で、非常に興味深いことを言っていた。

「みなさんには、動きの形ではなく、動きの機能を見てもらいたい」(I would like you to see the function of  the movement, rather the form of the movement.)

とにかく師範の動きは、惚れ惚れするほど美しく、機能的である。彼女より遙かに大男の有段者を前にしても、力まず、全身の機能をそのものとして使いながら、相手を導いていく。力を使わなくても、流れるように、相手は師範に誘われて、勝手に倒れていく。僕はまだまだ力んでいるのが課題なのだが、小柄な師範は投げている時でも軸が恐ろしいほどスッとしているので、力まずとも、相手は師範に吸い込まれるように、師範のなすがままに、流されている。本当に機能的で美しい所作。その理由が師範の本にも書かれていた。

「私は合気道の美しさは、中心と軸のぶれない無駄のない動き、いわば旋律の中に、呼吸という生命のリズムを吹き込んでいくことによって生まれると思っている。ここにいたるには、取りは技を磨き、受けは一本一本先入観のない攻撃で体幹(腹)から相手にぶつかっていくことによって初めて可能になる。受け、取り、ともに関節も足も固まってはいけないし、軸が崩れすぎてもいけない。」(p22-23)

とにかく岡本師範の動きをみていたら、「中心と軸のぶれない無駄のない動き」が音楽の旋律のように流れている。僕のがバタバタしてとにかくめちゃくちゃに音を吹きまくる、ガヤガヤ騒音だとしたら、岡本師範の動きは本当に美しい旋律だ。どこも固まっていないし、軸は崩れてはいない。単に形を再現するのではなく、軸に息吹を吹き込んで、流れを作り出している。

「体現されていく形に相違があっても、私たちが学び伝承していかなければならないのは師の表現方法ではなく、技の本質と原理であり、そうでなければ合気道という武道はやがて消滅してしまう。だから、先生の表現法だけを真似しても何にもならない。」(p97)

この指摘に、グサッとくる。僕はまず形を覚えるのが人一倍時間がかかり、すぐに忘れてしまうので、有段者になっても、必死になって形を再現している部分がある。きれいに形を再現出来ているかな、と。でも、それではだめだ、と岡本師範は指摘する。形に込められている「技の本質と原理」をこそつかまなければならない。それが師範が稽古で「動きの形ではなく、動きの機能を見てもらいたい」と伝えている真意でもある。形という表現法が表層だとしたら、深層部分にある「技の本質と原理」を探求し自分のものにするための模索を始めないと、単なる真似っこで終わり、それ以上は成長しない、と。

「形を何度も反復して練習した結果、その形しかできなくなってしまったのでは本末転倒です。反対に形をおろそかにして、気に入った動きだけ練習していても、我流になってしまう恐れもあるばかりか、技も体軸も身体の芯も身につきません。両方とも大切にして稽古をしないと必ず限界がくると思います。」(p126)

僕は合気道を始めてちょうど10年になる。山梨で初めて、途中から週2,3回はコンスタントに通い、山梨を離れる時には二段まで頂けた。そして、姫路に引っ越してきて、こちらの合気会道場にお世話になっているが、子育ても大変だったので、なかなか稽古に取り組めなかった。で、今年から本腰を入れようと思った矢先に、コロナ危機で3ヶ月以上稽古が遠ざかっている。その間に岡本師範の本を読んだ時に、僕自身が「限界」を感じてモヤモヤしていたと気づかされる。「形を何度も反復して練習した結果、その形しかできなくなってしまった」のは、まさに僕自身だったし、その結果として「技も体軸も身体の芯も身につ」いていなかった。だから、自分自身でも、合気道への情熱が消えかけていた。

しかし、岡本師範は「動きの形ではなく、動きの機能を見てもらいたい」と伝え、「私たちが学び伝承していかなければならないのは師の表現方法ではなく、技の本質と原理であ」るという。動きの機能=技の本質と原理を観察し、それを自分で出来るように練習していく。形が一応最低限身についたからこそ、動きの機能を洞察していく。それが、コロナ危機直前になって、稽古がちょっとずつ面白くなってきた、そのことをズバリと表現している部分だった。

そして、これは合気道に限ったことではない。

僕の本業につなげてみても、論文の形を再現出来るようになったところで、伝えたい内容の本質と原理を洞察して、それを言語化しない限り、つまらない業績作りのためだけの論文になってしまう。もちろん、最低限の文章の形を覚えることは、研究者の入り口としては大切だ。でも、大切なのは研究対象やテーマと自分が向き合う際、自分自身の中心と軸をぶらさず、対象・テーマとの間で旋律を奏でながら、流れを生み出し、流れを導いていく必要がある。それが出来た文章は、論文であれ、書籍であれ、対象と自分の呼吸が合うことで、無理のない形で論理が動き、実感が読者にも伝わる。僕が力みすぎては、伝わらない。あくまでも、対象やテーマとうまく呼吸を合わせ、流れを大切にする。その流れを阻害しない形で、僕は本質や原理、機能を、そのテーマの中で落とし込んでいく。それが決まると、多くの読者に届く文章が生まれてくる。

稽古が再開されたなら、僕も一から動きの機能や技の本質と原理を洞察し、それを稽古の中で一つ一つ仮説検証し、身につけていきたいと心から思う。そして、普段の日常生活の中でも、仕事や子育てでも、それぞれの動きの機能を観察し続ける感度を持っていたいと思う。そう思うと、稽古のない中でもできる稽古テーマを与えて頂いたのかも、しれない。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。