神代健彦さんの『「生存競争」教育への反抗』(集英社新書)を面白く読む。実は彼が翻訳したニコラス・ローズの『魂を統治する 私的な自己の形成』(以文社)を読んでいたので、新自由主義的統治権力に鋭いメスをいれる本を訳した教育学者はどのような教育論を描くのか、を楽しみにしていた。
期待に違わず、オモロイけど、ずしんと何かが残る本であった。
「わたしたちは『教育依存症』である。わたしたちは、子どもによい教育を与えたい、否、与えなくては不安で仕方がない。いま与えている教育で十分なのか、もっといい教育があるのではないか、そんな底なしの不安。」(p70)
こども園に通う娘の父として、この「依存症」はすごくよくわかる。ママ友から聞くと、3才から公文や書道、体操教室など様々なお稽古ごとに習わせている家庭も少なくない。また、こども園でも年少組からひらがなを書く練習をさせているクラスもある。ググったら、知育関連の情報は死ぬほど出てくる。だが、妻と話し合ったうえで、娘さんは、そういう早期の社会化に向けた教育ではなく、昔ながらの、泥団子を毎日のように作って遊ばせてくれるこども園に通っている。
それは、「反社会的」!な思想家と神代さんが表するルソーの教育観に近いのかも知れないな、と読んで感じる。
「いつの時代も、社会やその構成員としての大人は、子どもを教育することによってそこから利益を引き出そうとする。そこでは教育は、社会のエンジンとしての市場経済を維持・発展させるための一つの手法である。あるいはそれは、もう少し家族の目線に寄りそうならば、子どもを将来に対して備えさせることによってその子自身の将来の利益を増進させるという営みでもある。そのような(大人の)社会の思惑に対して、ルソーは否という。子ども期は個人と社会の将来へ向けた単なる準備期間ではない。それは『子ども期』という人生における固有の価値をもった時期であり、その固有な時期としての『子ども期』の充実それ自体が、教育の目指すべきところだというのである。」(p144)
安定した職に就くため、食いっぱぐれないため、社会の歯車として機能するため、世間の恥さらさしにならないため、あなたのため・・・の教育。それは、「いま・ここ」ではない、予見できない明日のための教育である。捕らぬ狸のなんとやら、と皮一枚の距離である。そういう社会や親の期待に応えるための教育に「ルソーは否という」。「いま・ここ」に「固有の価値」を重視して、その時期それ自体の充実が大切だとルソーは指摘する。だが、この「固有の価値」も、神代さんに言わせると、「子どもの内側から生じてくる『力』の重視、その合理的な涵養」 (p154)という意味では、現代の「もっといい教育」の代表格と称されるコンピテンシー(新しい能力)教育と通底するとも喝破する。
この構造の地続き性は、言われてみたらよくわかる。が、そこから抜け出すことは簡単ではない。そもそも、親自体が「教育依存症」に無意識にはまり込んでいる場合、子どもより遙かにその呪縛に苦しめられているのは、実は親の方なのだ。「ちゃんとしなさい」「しっかりしなさい」「言うことを聞きなさい」と子どもに期待したり、叱ったりしている時、「いま・ここ」の子どもの「固有の価値」よりも、世間の規範なり社会的な良さなり将来の可能性などに縛られて、そこに子どもを適応させようと必死になっているのでである。「いま・ここ」の生の充溢に向き合えていないのは、子どもではなく親のぼくの方なのだ。
親の言うことに従順に従う、聞き分けの「いい子」ならば、早い段階でその親のしつけや教育に従順に従ってしまう。それは、結果的に「『子ども期』という人生における固有の価値」を摘んでしまうことになる。だが、うちの娘は、幸か不幸か!?、全力でその適応に拒否してくれるので、まだその芽が摘まれていないだけだ。そして、僕が自分自身の「教育依存症」的な不安に無自覚なままなら、早晩娘は「『子ども期』という人生における固有の価値」を手放してしまう可能性がある。
社会の思惑に絡め取られない形で、「子ども期の充実それ自体」を追求するにはどうしたらよいか。神代さんはこう提起する。
「社会への合理的で『自然』な『適応』に任せては出会うこともないような、世界のさまざまな事実(コンテンツ)に子どもたちが出会い、その驚きに打たれ、おのずからそれと戯れる。そんな種類の教育/学習の経験である。そのような教育/学習の経験において子どもたちは、学びの結果(能力達成)を強迫的にもとめることなく、むしろ強迫的な社会を超えた世界に出会う。『その学習はなんのため?』という意味の問いを離れて、否むしろ、その問いを問う必要を感じないほどに、世界の強度を経験する(面白い!/楽しい!/深い!/美しい!/醜い!/汚い!/怖い!/なんだかよくわからないけどすごい!/もっともっと、これに触れていたい!)。強迫的な社会の必要を拒否し、ゴールとしての資質・能力の呪縛から解き放たれた、適度にゆるめられた心と体が、自然や文化、芸術、つまりは世界と出会う。彼らは育つために、自己自身を有能にしていくために世界と出会うのではない。世界とであうことは、それ自体が価値なのである。」(p163)
書き写していて、筆者の心からの情感が込められた、実に美しい文章である。僕にはこんな凜とした文章は書けない。そして、さらに思うのだ。この「強迫的な社会の必要」とはかけ離れた、「それ自体が価値」である「世界とであうこと」は、僕は10歳くらいの時に封印したことであり、また4才の娘が全面的に楽しんでいることそのもの、であると。
以前から何度か書いているが、小学校5,6年ではいじめで学級崩壊状態に陥り、マイナスの世界の強度しか経験しない絶望状態だった。中学校に入って猛烈進学塾に入った後は、有名高校・有名大学に入るための「学びの結果(能力達成)を強迫的にもとめる」レースにのめり込んでいく。あの当時の僕には、それしか人生の絶望からの出口は無かった。その意味で、10才以後の僕は、「適度にゆるめられた心と体」とは真逆の、ドンドンとキツく心身を振り絞っていくような時期だった。すごく悲しいし残念な話なのだが、未だに僕の中にはそのときに内面化された偏差値的序列信仰や「ゴールとしての資質・能力の呪縛」への強迫観念の残滓が残っている。それが、生産性至上主義と結びついて、娘が生まれた後の己自身を矛盾の最大化に至らしめたことは、現代書館のウェブ連載でも書いている。
だからこそ、思うのだ。「その学習はなんのため?」なんていう、近視眼的で実に些末な思い込みから自由になり、「面白い!/楽しい!/深い!/美しい!/醜い!/汚い!/怖い!/なんだかよくわからないけどすごい!/もっともっと、これに触れていたい!」・・・と心から思える何かと出会い続ける大切さを。「社会への合理的で『自然』な『適応』」なんて、いやでも社会人になったらせざるを得ない。それを、わざわざ早期教育する必要は全く無い。「世界の強度を経験する」ことは、能力達成とか資質の向上とは全くかけ離れて、「その驚きに打たれ、おのずからそれと戯れる」ことである。そんな対象に没入するおもろい経験を、僕は子どもから奪いたくないし、社会は子どもから奪ってはならない。そして願わくば僕自身も、改めてそんな機会を獲得し直したい。改めてそう思うのだ。
「『適応』する、生き残るということは、生き物としての目的であり欲望である。そのような生き物としての欲望の充足を全否定することはできない。この欲望の充足へむけた活動は、わたしたちが生きて働くものである以上、不可欠で不可避ですらある。しかし他方で、そのような種類の欲望充足が人生の関心事のすべてになってしまうことには、ある種の窮屈さ、もっと言えば不快さがある。もっとほかでもあり得たかもしれない世界が、役に立つ限りでの世界=社会という形へと、不当に狭められているような気がしてくる。そのような矮小な世界に先を争って『適応』しようとしている『自己』自身に、言いようのない苛立ちが募ってくる。」(p179)
「その学習はなんのため?」という功利的な問いを発し続け、自分が現時点で考える基準において将来役立つ・役立たないという単純な物差しで学びを取捨選択することによって、「もっとほかでもあり得たかもしれない世界が、役に立つ限りでの世界=社会という形へと、不当に狭められて」いく。これは、10代から20代前半の僕自身の自己像そのものであった。それによって、学歴はどんどん積み上がっていく一方で、僕自身の「世界と出会う」可能性をどんどん狭まっていったような気がする。
これほどまでに、「社会への合理的で『自然』な『適応』」を自分に求め続けた「教育依存症」は、僕に根深く巣くっている。その教育依存症から自由になるために、神代さんはガート・ビースタの『教えることの再発見』(東京大学出版会)を用いながら議論を進める。斜め読みして、頷ける部分もあるが、彼の議論は難しかったのと、フレイレに代表される批判的意識化への批判が主題になっていて、うまく僕のなかではまだ飲み込めていない。なので、この部分についての僕の見解は、今は保留にしておく。
いずれにせよ、「『その学習はなんのため?』という意味の問いを離れて、否むしろ、その問いを問う必要を感じないほどに、世界の強度を経験する(面白い!/楽しい!/深い!/美しい!/醜い!/汚い!/怖い!/なんだかよくわからないけどすごい!/もっともっと、これに触れていたい!)」ということが、教育依存症から脱する最も正攻法のやり方であると思う。そして、これは娘だけでなく、その娘と向き合う父親である僕自身にも、いま・ここで求めてられていることだと、改めて感じる。
「世界の強度」を感じる体験を、週末にでもできたら良いな。