精神科医の熊倉陽介さんが雑誌『精神看護』に連載されていた「連載 トラウマインフォームドな精神保健医療福祉のパラダイムシフト」を読み終える。ホームレス支援に取り組み、ハウジングファーストの思想や実践を日本に広めようとする、俊英の若手である。文章もめちゃくちゃ面白くて、示唆深かった。
彼はダイアローグの前提として「権威勾配」を自覚化せよ、と指摘する。それは医師と患者さんの間にある、非対等な関係のことを指す。
「強制入院という文脈がある中で共同意思決定を医師が語っていることなんかが時々あると思うんですけど。それってそもそも対等な関係性を語る前提が成り立っていないと思うんですよね。歴然と公権力の代理人として強制入院させて自由を奪っているわけなんで。存在している権威勾配を、あたかもないかのように対話が持ち出されることには、注意しないといけないですよね」(連載5「話し合おう」)
すごく、頷く。そして、これを精神科医が語ることの重要性を感じる。僕は6年ほどまえ、東大で開かれたオープンダイアローグのセミナーで、「オープンダイアローグは、精神科病院をベースにしたシステムでは出来ないだろう」と発言し、業界の人から総スカンを食らった記憶がある(そのことはブログにも書いた)。だが、この時書いた以下の視点は、全く撤回する必要は無いと思っている。
「病棟であろうがなかろうが、対等な人間関係を指向し専門家主導から当事者主体へと生まれ変わるための専門職の覚悟と、不確実な「対話」に柔軟に対応するために十分な人手を確保しトレーニングを積むことが出来る組織改革とが、日本の現場でオープンダイアローグを実践する上で問われている」(竹端寛「日本の現場でオープンダイアローグを実施するための条件」)
熊倉さんの原稿を読んでいて頷いたのは、「歴然と公権力の代理人として強制入院させて自由を奪っている」ということをはっきり宣言した上で、「そもそも対等な関係性を語る前提が成り立っていない」のだから、「存在している権威勾配を、あたかもないかのように対話が持ち出されることには、注意しないといけない」と書いている点である。自らがどのような権力構造・権力関係の中に位置付いているのか、取り込まれているのか、に自覚的になり、そこにどのような「権威勾配」があるのか、を読み解いた上で、できる限り対話を成立させるために、「対話しない権利」も利用者が持つべきだ、と指摘している。これは、言われてみればその通り、の指摘である。
その上で、権威勾配が最もハラスメント的に立ち現れる場面の一つとして、生活保護の申請場面でのトラウマの発生を、以下のように読み解く。
「単純なことばとことばが組み合わさって、より複雑なことばを作る。言葉って進化していくんですね。言葉は単にコミュニケーションのためだけではなくて、思考するために進化しています。複雑なことばを操ることで、思考することを可能にしていきますよね。それと同時に、ことばを操る能力が、権力と結びついてもいます。試験をしてことばをうまく操れる人が選別されて、公権力の代理人として官僚制を担っていくわけですので。端的に言えば、文章を管理する公務員には権力があるということです。生活保護の申請場面でトラウマが起こりやすいのは、申請する人とその対応をする公務員との間に権威勾配があるからという要素があります。診断書を書く医師ももちろんそうだし、強制入院の判断をする精神保健指定医は特にそうですね。ことばや文章を操る能力と権力が、密接に結びつているんです。ことばが権力と結びついて、格差を維持したり拡大させる装置となり得ることに、自覚的でいる必要があるんですね」(連載5「話し合おう」)
めちゃくちゃ、鋭い!
支援が必要な状態にある人が、行政窓口や診察室を訪れる。この時、本人の混乱や困惑、不安や苦しみはマックスな状態である。だが、行政の窓口担当者や医師は、聞いた内容をカルテやケース記録などの書類に落としこむ必要がある。昨日のブログで書いた「意識の志向性の方向性」に引きつけるなら、「アセスメントしてカテゴリーに分別したり適否を判断する」ことに意識の志向性の方向性が向いていると、その認定基準やDSMなどの「より複雑なことば」の体系の中で、相手の話の当てはまりそうなところを掴もうとする。それは、コミュニケーションのため、というより、アセスメントの思考を展開するための言語運用である。一方、目の前の困惑している人は、何をどう話せば良いのかわからないくらい切羽詰まった状態だ、という切迫感に意識の志向性の方向性が向いている。すると、両者の意識の志向性の方向性は完全にズレる。かつ、冷静なルーティンワークとして記入し慣れている公務員なり医師に、明確に権威勾配がかかっている。それが、「ことばが権力と結びついて、格差を維持したり拡大させる装置となり得ること」なのである。これでは、確かに対話は成立しない。
では、どうすればよいのか。熊倉さんは、「とりあえず自分の小さな話から始めてゆっくり降りていって、そろそろと、見たくないものを見ていく」戦略を、治療実践でも、あるいはこの連載でも、展開している。(ずっと「締め切りトラウマ」を連載の毎回の前半に書き続けて、若干くどいと思ったのだが、そういう背景があったのですね(^_^))
「初診では、トラウマティックなエピソードがグルグルと繰り返されつつも、本丸的な話題には一切触れない人もいれば、語ると夜中に具合が悪くなることを自分でわかっていいて、努めて客観的に淡々とライフストーリーを語る人もいます。まずは身体疾患の治療方針から考えつつ、足の爪を切ることなど、なるべく物理的なことから診察を始めるようにしています。解離させて存在を無視してきた身体の末端を、少しずつ取り戻していくべく、足の爪を何度かに分けて切り、足浴をして温め、水虫の軟膏を塗りながら、きれいな爪が生えてくるのを待ちます。靴を履いて、地に足をつけて『立つ』こと、そして、『歩く』ことの回復することが、どこかに出かけて行って好きなことをしたり、誰かと出会うことの権利を保障することになります。
身体のケアから始めて、背景に鳴り響いていたシャーク・ミュージックが少し遠のいて小さくなったように感じられたら、言語的にトラウマ記憶を扱う準備ができたかもしれません。」(連載4「足の爪を切ろう」)
ホームレス支援の現場で出会う、足がどろどろで、靴もあるかないかの状態で、爪も伸び放題だったり巻き爪だったりして、皮膚もガサガサ、水虫が出来ている・・・。そういう状態の人を、「不潔で清潔概念に乏しい人」とみるか、「解離させて存在を無視してきた身体の末端」の保持者とみるか、で意識の志向性の方向性は全く異なる。前者であれば、だらしない・ややこしい・「問題行動」のある・面倒くさい・・・そういう存在だと、個人の性格の問題に矮小化してしまう。でも、その足に、「解離させて存在を無視してきた身体の末端」とラベルを貼り替えることによって、本人は辛いことやしんどいこと、トラウマ的体験を、解離や無視によってやり過ごしてきたのだな、と捉え直す事が出来る。すると、ご本人には様々なトラウマ的体験が重なってきたのかもしれない、という予測を立てる事が出来る。
事実、熊倉さんが勤めることぶき町簡易宿泊所(ドヤ)街にある診療所では、多くの人が「母親と末っ子の自分だけで父親に毎日殴られていた」「ガラス戸に投げつけられて血だらけだった」「熱いストーブの上に裸足で立たされた」「酔った母親にレイプされた」などのトラウマ体験を語る、という。そして、このような、だらしない・ややこしい・「問題行動」のある・面倒くさい・・・と片付けられてきた人々の背景にあるトラウマの物語をじっくり聴くためにも、しかも診察室という権威勾配が強く働いている場面で、医師としてその語りを聞こうとするからこそ、彼は対話する前に、爪を切るのである。そして、身体の不調を整え、身体の解離を再統合するように治癒や心身の余裕を取り戻すキュアのプロセスを経た上で、トラウマの物語をこの人になら語ってもいいな、という信頼関係を構築していくのであろう。
「トラウマインフォームドな支援組織や文化をつくるためには、トラウマの影響を受けている人と共に居ることができる場を作る事から始める必要があります。対人支援の場を、誰一人排除しないように構築し、持ちこたえることでしか、真にトラウマインフォームドな支援を行うことは出来ません。逆説的に言えば、自分たちの支援は誰を排除することで成り立っているか、と、常に問う必要があります。」(その3「ただ『居る』ことを保障しよう」)
この連載を読んでいて感じたのは、トラウマインフォームドとは、トラウマがあるという前提で物事を見ていく・捉え直す視点かもしれない、ということである。だらしない・ややこしい・「問題行動」のある・面倒くさい・・・と片付けられてきた人々は、「トラウマがあるという前提」で捉え直すと、様々な解離や退避行動を取らざるを得なかったことが、見えてくる。それを、ルールに従わない・他人に迷惑をかける・場を乱す・・・人、と排除していては、何の解決にもならない。「自分たちの支援は誰を排除することで成り立っているか」という問いは、それほど強い問いとして、僕自身に突き刺さる。
実は、僕の前任校時代のゼミ運営においても、「結果的な排除」はあった、とこの原稿を読みながら、思い返す。
前任校のゼミでは、魂の脱植民地化を主題として、自分自身の生きる苦悩や挫折、抑圧をオートエスノグラフィー的に問い直す内容の卒論を書くゼミ生が増えてきた。その中で、カレッジアスリートとしての挫折体験や、「空気を読む良い子」の苦悩を言語化してくれるゼミ生など、彼女ら彼らの卒論から沢山のことを学ばせて頂いた。だが、ある時期から毎年一人は、途中でドロップアウトする、というか、「ゼミから遁走する」学生が出始めたのだ。全くゼミや僕の前から存在を消す学生、ゼミには来るけど卒論草稿を「白紙」で出す学生、何を聞かれても殆ど何も答えられずに緘黙状態の学生・・・など、色々な形での「遁走」があった。
当時の僕は正直そのような学生に対して、「問題学生」というラベルを貼っていなかったか、といえば嘘になる。でも、熊倉さんの連載を読んで、やっと思い至ったのだ。彼らにトラウマがあるという前提で向き合う事が出来たら、少なくともトラウマの知識がその当時からあったなら、もう少し違う接し方、アプローチが出来たのではないか、と。僕の前から遁走する「困難事例」なのではない。他のゼミ生が自らの魂の植民地化と向き合う時に、自分にはそれが強烈にしんどくて、でもそのしんどさを言語化することも出来ずに、僕から遁走や解離することでしか、彼らは対処できなかったのではないか、と。
すると、大学のゼミでもそうなのだから、トラウマを前提とした、トラウマインフォームドなアプローチは、結構あちこちで普遍的に必要とされていることなのだ、と改めて感じる。つまり、「ややこし人」「他人に迷惑をかける人」とラベルを貼られている人と出会うときに、トラウマの可能性も視野にいれながら、でもそれを最初から前景化させることなく、本人が落ち着く・信頼関係を持てるような関わりをどうできるか、が支援や教育の現場では求められているような、気もする。
ハウジングファーストの思想の原点に「non judgement」があるとも連載ではくり返し書かれていたが、「ややこし人」「他人に迷惑をかける人」というjudgementを手放して出会い続ける事が出来るか。それは、僕自身に問われた課題でもある。