子育てで立ち戻るべき視座

ふだんは育児書や保育の本を読まないのだが、この本は一気読みしてしまった。

「子どもの育ちは、右肩上がりで少しずつできるようになってあたりまえという幻想に捉われやすいものです。実際の子どもの育ちは、右肩上がりで一本道ではなく、行ったり戻ったり、ジャンプしたりと、不規則に変化します。それがあたりまえなのです。環境の変化で排泄の失敗が続いたり、夜泣きがひどくなったり、偏食になったり、急に『お母さんやって』と甘えたり・・・と、いろいろな退行(現象)を見せるのは、決して特別なことではありません。」(赤西雅之著『親のねがい。保育者の言葉。手を取り合って、子どもを育てる』郁洋舎、p30)

確かに、うちの娘さんの成長も、一本道とは全く違う。実際の娘さんも、ふだんからうろうろしたり、行きつ戻りつ寄り道しつつキョロキョロしつつ、生きている。そして、彼女の育ちもまさにそれと同じ。不規則な変化で、予想不可能であり、うまくいったかとおもったら、今度はまた出来なくなったり、あっちいったりこっちいったり、である。親は自分が出来ていることが前提になっているから、正比例のように、順々に出来てくれるはずだ、と思っているけど、何もかも新しいことを学ぶ娘さんにとって、そんなに簡単に順応できるはずもない。そのことを忘れてしまっていたよなぁ、と改めて気づかされる。

そして、忘れていたこと、といえば、もう一つ大切なことがある。

「一人ひとりの年齢や生活背景が多種多様でも、子どもを授かるということに関しては、みんな『初心者』だということは、つまり最初から子育てがうまくできる人はいないということです。『子育てはうまくできなくてあたりまえ』なのです。」(p11-12)

子どもが5歳なら、まだこの世界に誕生して5年分の学びしか出来ていない。一方、ぼくは42歳の時に子どもが生まれているから、十分学んで来たはずだ、という不遜な思い込みが支配しやすい。でも、子どもが生まれたとき、初めて父になったのである。すると、父親としてはまだ5年の経験しかしていないのだから、「うまくできなくてあたりまえ」なのである。でも、47年も生きていると、うまくいくはずだ、という思い込みに支配されやすい。だからこそ、子どもの成長が一本道でなく、行きつ戻りつ寄り道しつつ、であることを自覚化・意識化することと、親の初心者としてのぼくじしんも、同じように一本道で成長するわけではない、ということを知っておくと、過剰な期待を抱かず、「うまくいかなくてあたりまえ」なんだから、と落ち着いて子どもとも、そして自分自身とも、向き合えるのだと思う。

「子どもが親を困らせる仕草は、理解してもらえないことの苛立ちと、コミュニケーションがうまくいかないことへの焦りと孤独感です。それが母親に向けられているのです。子どもの内なる言葉で表すと、『ぼくは自分ひとりではできない。どうしていいかわからない。どうしてひとりでできるように育ててくれないんだ』となります。父親に向かわないのは、父親は子どもにとって『主たる保育者』として認められていないからです。」(p93)

特に最後の箇所にはドキリとさせられる。ぼくは「主たる保育者」として娘から認められているか、というと、結構怪しい。ご多分に漏れず、「お母さん、お母さん」と娘は言っている。だが、ドキリとしたのは、それだけではない。「ひとりでできるように育てる」という支え方、子どものアシストの仕方は、まさに必要不可欠とわかりながら、そう簡単ではないからだ。

「誰かにやってもらって、完結して満足する子どもはひとりもいません。子どもは、自分でやりたいのです。でも、あらゆることが未熟でうまくできず、お手伝いが必要です。それは受け入れますが、そのお手伝いは自分でできるようになるまでのひとときの方策なのです。ということは、親は『子どもがひとりでできるように手伝う』という工夫と知恵が求められるわけです。つまり、手伝いは『過小でもダメ、過剰でもダメ』ということです。」(p93)

これが最も難しい。どうしても子どもに構い過ぎになったり、子どもがやいやいわあわあ言い出したら、もう関わるのがしんどくなって、関わりが過小になってしまう。でも、それは親中心の視点である。ここで大切なのは、「子どもは、自分でやりたいのです」という子ども中心の視点を、忘れずに持ち続ける事が出来るか、という問いである。親は、ついついコツを知っていたり、こうした方が上手くいく、早くできる、綺麗に仕上がる・・・と余計なアドバイスをしてしまう。そして、子どもはそんなアドバイスを求めていないので、怒り出す。よく考えたら、その失敗は妻に対してしていたのと、同じ失敗である。他者に関与する基本は、あくまでも「ひとりでできるように手伝う」しかないのだと、書き写しながら改めて痛感する。

「大人による『指示、命令、禁止』のような言葉は、むしろ子どもはそこから逃げようとするのではないでしょうか。『言われたくない』『聞きたくない』となると、言葉に対する信頼が失われます。意欲的に覚えて、使って、多くの人とつながり合いたいとする興味、関心もうすれるでしょう。子どもがたくさんの言葉に囲まれている環境のなかで育ったとしても、その言葉の内容、質によっては、『耳を塞いだまま聞こうとしない』『見るべきものを見ようとしない』という結果になってしまいます。」(p153)

これも、イテテ、の指摘である。とっさの時に、ついつい、「指示、命令、禁止」の言葉を多用している自分自身に気づかされる。確かに、やってほしくないこと、危ないこと、があると、指示や命令、禁止の言語を親は使いたくなる。でも、子ども中心の視点で捉え直すと、確かにぼくだって『言われたくない』『聞きたくない』言葉なのだ。それは子どもだから、未熟だからしかたない、のではない。言葉に対する信頼や興味を失うような言葉がけは、すべきではないのだ。子どもが心を開き、耳を傾け、観察したくなるような、そんな言葉がけに、どうやったら親のぼくもバージョンアップ出来るのか。それが改めて、ぼく自身に問われていると、これも痛感した。

こんな、親にグサグサ刺さる言葉を、わかりやすい子どもとの関わりの実例を用いながら解説してくれる、この本の著者、赤西雅之先生は、娘の通うこども園の理事長先生である。そして、ぼくはよく、子どもの送り迎えの際に、理事長先生とおしゃべりする。あるいは親の学習会で、色々教わる事も多い。

彼はノウハウ的な「こうすればうまくいく」ということは一切言わない。それよりも、誰もが押さえておくべき本質とは何か、をいつも模索しておられる。そして、親の模索に合わせて、一緒に考えてくださるのがありがたい。(ただ、たまに謎かけや禅問答のような問いかけをうけて、こちらも考え込んでしまうときもあるのだが)

この本も、赤西先生のスタンスが貫かれている。だから、一度読んだだけで、「こうすればうまくいく」秘技は書かれていない。でも、その代わりに、立ち戻るべき基本や、外してはならない視座は、しっかり書かれている。子ども中心の視点にたつ。子どもがひとりで出来るように、どのように手伝えるか、を考える。その際、指示や命令や禁止ではなく、子どもが信頼して行動を変えるような言葉がけをどうすべきか、を常に意識する。こういったことが、この本の中に溢れている。

ついでに言えば、親の視点と保育者の視点が両方書かれていて、一つの課題や事象について、複眼的に捉えられるのもありがたいし、この複眼的な視点で、自分だったらどうだろう、と考え直すのも大切だと思う。

だからこそ、子育てしながら困ったとき、あるいは子どもの対応にどうしようか悩むとき、そうではなくてもたまに、この本を読み返して、改めて立ち戻るべき視座とは何か、をつねに振り返り、自分自身を捉え直し、子どもとの関わりをバージョンアップさせたい。そんなことを思いながら読んでいた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。