ウェンディ・ブラウンの最新刊『新自由主義の廃墟で』を読む。前作では、「新自由主義的合理性」の内在的論理が骨太に描かれ、自分自身がその論理をしっかり「所与の前提」にしてしまっていることに気づかされ、圧倒された。そのことはブログにも書いた。
今回の本は、アメリカ社会において、この新自由主義的合理性が、女性や黒人、LGBTQや障害者を保護する為になされた様々なアファーマティブアクションという「社会的なもの」と「政治的なもの」を毛嫌いし、「表現の自由」を縦に、政府による規制や介入を外していく様が描かれていて、背筋が寒くなった。
「拡張された『個人の保護領域』の保護は、伝統と自由がその敵−すなわち政治的なものと社会的なもの、合理的なものと計画されたもの、平等主義的なものと国家主義的なもの−を撃退するための方法である個人の自由が、正しくも制限をとりはずされた領域を広げることは、伝統的な信念や習律が、もしくはハイエクが『人間の交際に関する・・・しきたりや習慣』と呼ぶものが、かつては民主主義に支配されていた場所における市民的なものと社会的なものを合法的に取り返し、さらには再植民地化することを可能にする。」(p145)
この本で味噌となるのは、「政治的なものと社会的なもの、合理的なものと計画されたもの、平等主義的なものと国家主義的なもの」という社会民主主義的な価値前提を破壊しようとするのが、「伝統と自由」である、という点だ。家族主義とキリスト教原理主義が、市場原理主義と結びついたとき、経済の領域だけではなく、アファーマティブアクション全体への攻撃となる、という点である。
「コスモポリタン的な都市住居者たちがフェミニズム、非規範的なセクシャリティ、非伝統的な家族、世俗主義、学芸、そして教育を擁護するのに対して、傷ついた白人の内陸居住者たちは反射的に中絶、同性婚、イスラム教、『白人に対する攻撃』、神を信じないこと、そして知性主義に反対する叫び声をあげる。ここで声を上げているのは『伝統』でもなければ道徳でさえなく、彼らの伝統や道徳を押し流したいと願っていると認識された世界に対するヘイトの声なのだ。」(p162)
「政治的なものと社会的なもの、合理的なものと計画されたもの、平等主義的なものと国家主義的なもの」という社会民主主義的な価値前提それ自体が、poor whiteと呼ばれる「傷ついた白人の内陸居住者たち」を攻撃している訳ではない。ただ、社会的なものや政治的なものが、異性愛的で家父長的でキリスト教原理主義的な価値観以外のものを認める多様性(diversity)や包摂性(inclusion)を社会制度の中に取り込んだとき、「傷ついた白人の内陸居住者たち」は、「彼らの伝統や道徳を押し流したいと願っていると認識された世界に対するヘイトの声」をあげ始めた。それが、ケーキ店と妊娠相談センターを舞台とする裁判において象徴的に描かれる。
アメリカ合衆国憲法の修正第一条には「連邦議会は、国教を樹立し、若しくは信教上の自由な行為を禁止する法律を制定してはならない」と書かれている。これを土台に奇妙な裁判が起こされた。
「マスターピース・ケーキショップに同性の結婚式のためにケーキを作って売ることを要求することで、修正第一条の権利が侵害されるだろうというジャック・フィリップスの主張は、そのひとつひとつは単独では成立しないさまざまな主張の布置の上になりたっている。この布置は表現の自由と宗教活動の自由を結びつけて、公的領域における伝統的道徳のための新たな空間と力をつくりだす。」(p182)
同性婚に反対するケーキ屋の店主が、ケーキの注文を拒否した。これは公共施設法の違反であり差別である、と、カップルは不服申し立てをコロラド州市民権委員会(CCRC)に行い、CCRCはカップルの主張を受け入れる。だがその後、連邦最高裁判所において、公共の店舗が差別的な扱いをしてはならない、という社会的・政治的な判断を、「表現の自由と宗教活動の自由を結びつけて」拒否したのだ。彼は普通のケーキ店の店主であり、彼のケーキはことさらキリスト教のテーマや図像、メッセージが入っていた訳ではないのに、「最高裁は同性婚のためのウェディングケーキを作ることは『彼のもっとも深いところで信じている信仰に反するようなお祝いに参加すること同等だろう』と断言している」(p186)のである。
この最高裁判決も実に変なのだが、さらに変なのが「妊娠相談センター」とカリフォルニア州法務長官の裁判である。
アメリカには今、約4000の緊急妊娠相談センターがあるが、これらは中絶やアフターピルに関する相談を受け付けるのではない。逆に「望まない妊娠をした女性たちに、中絶をしないように説得をすること」(p198)が目標とされている。キリスト教保守主義団体から組織的な援助を受けている。しかも、「資格のある医療スタッフはいないにもかかわらず、彼らは白衣やスクラブを着て、受付書類に健康状態の情報を書かせ、病院のような見た目や雰囲気を模倣している。フェミニズム団体の精神や調子を登用するセンターもある。」(p199)
こういうセンターに対して、カリフォルニア州法は、「非認可の緊急妊娠相談センターに、自分たちは医療施設ではないという通知を明示し、すべての緊急妊娠相談センターに、両親のケアや妊娠中絶もふくむ、カリフォルニア州によって提供される無料もしくは低価格の総合的な生殖医療が利用可能であることを示す通知を掲示もしくは頒布することを要求した。」(p197)
この訴訟に関するブラウンの整理に、アメリカ社会の変質の本質が詰まっている。
「<マスターピース・ケーキショップ>訴訟と同様に最高裁は、表現の自由が、保守的キリスト教が私的領域から離脱して、商業的・公的領域における勢力となるための手段となることを許し、また同時に商業的・公的領域を規制する法から、それを宗教だから(「信仰」だから)という理由で保護するものである。これこそが、修正第一条の適用範囲を考える際に、『職業上の表現』には何も特例的な部分はないという最高裁の主張の真の重要性なのである。この訴訟を、職業上の表現についての訴訟であり、同時に深い信仰の場における表現規制についての訴訟であるとあつかうことによって、誤表象さらには詐欺行為を保護された表現へと変換するための理路を、最高裁は創造しているのである。真実、透明性、説明責任はすべて、職業的なサーヴィスの仮面をかぶった宗教的な目的のために、二の次にされてしまうのだ。」(p209)
同性婚に反対するから、ケーキショップが同性カップルにケーキを売らない。中絶に反対するから、妊娠相談センターが相談者に中絶に関する情報を提供しない。どちらも、商業的・公的領域の施設であり、信仰施設ではない。そして、商業的・公的施設では、対象者に差別的な取り扱いをしてはならない、という社会的で政治的な配慮がなされている。この社会的で政治的な配慮より、修正第一条で保証された信仰の自由の方が勝るのだ、と、連邦最高裁は判断したのである。つまり、信仰施設だけでなく、商業的・公的領域の施設であっても、同性婚への反対や中絶への反対行動は、そこで働く人々の「信仰上の理由」に基づき、差別とは当たらない、と判断されたのだ。これは、女子教育を制限・禁止したり、ブルカをかぶらない女性を思想警察が取り締まることも許されるイスラム原理主義と同様の宗教原理主義が、アメリカにおいても最高裁で認められた、ということでもある。
トランプ政権で、最高裁判事の勢力が逆転し、保守派に牛耳られた、という報道は耳にしていた。表現の自由に関する修正第一条については、たまにニュースでも聴く。だが、これらが合わさることによって、公的・商業的な施設における差別的な取り扱いを禁じる法規制という政治的・社会的なものよりも「表現や信仰の自由」が勝る、とされてしまうと、1960年代からアメリカ社会が構築してきたものを、根底から根絶やしにするのではないか、という戦慄・旋律が、本書には通底している。
黒人解放運動に端を発し、フェミニズム、障害者運動、先住民の権利回復、LGBTQや宗教的少数者の権利確保など、アメリカ社会では「未だ優遇されていない人々」のエンパワメントと尊厳を重視する法政策がとられてきた。不平等な状態を是正するためのアファーマティブアクションも制度化されてきた。だが、その一方で、アメリカの白人労働者階級は、製造業の没落と共に衰退し、ラストベルトとして放置された。もともと労働者の党であった民主党は、マイノリティの権利擁護に邁進する一方、エリートな知識層はpoor whiteを馬鹿にしているのではないか、キリスト教的な家父長主義や異性愛主義は重視されていないのではないか、と白人男性労働者たちは感じていた。だからこそ、「福音派キリスト教徒たちは、文化的エリートに軽蔑され、世俗的な勢力によって攻撃されたという共通の経験のために、トランプに深く同一化した」(p130)のである。
そして、ブラウンはトランプや、トランプを応援する内陸部の白人男性に共通するのは、怨嗟や怒りであり、脱昇華されたルサンチマンであり、「復讐しかなく、出口も未来もない」(p245)と言い切る。本書の結論部でそう書いていて、はっきり言って、何の夢や希望もなく、本書は締めくくられる。
本書の元々の副題は、「西洋における反民主主義的な政治の隆盛」であった。アメリカ社会において、民主主義的な政治の成果として、アファーマティブアクションといった政治的で社会的なものが半世紀以上書けて法制度化されてきた。だが、それが、白人労働者階級の没落と特権の剥奪される事態を前にして、彼らはマイノリティを攻撃し、「反民主主義的な政治」を遂行するドナルド・トランプを選んだのである。そして、この攻撃に対して、「いかなる種類の左派の政治批判やビジョンが、それをとらえて変容させることができるだろうか?」(p256)という締めくくりで本書は閉じられている。つまり、それができていない現状への、著者の嘆きのようなものが、本書の結末になっているのだ。
これを読んでいて、思い出さざるを得ないのが、選択的夫婦別姓に頑なに反対するのが、日本会議と統一教会という二つの宗教団体であり、そこにつながる自民党の保守勢力であった、ということである。また、児童手当の拡充に反対するのも、家族の役割が制約されるから、という同じ保守勢力の意向が働いた。これは「子ども庁」発足時に「家庭の役割が大切だから」と「子ども家庭庁」と名前を変えさせた経緯にもつながる。異性愛的で家父長的な家族主義が宗教原理主義と結びついた時、洋の東西を問わず、社会的・政治的な法規制や国会による制度の拡充に反対し、「家族のことは家族で」と責任を押し戻す流れになるのである。個人の自由と伝統的道徳(家族主義と家父長制)は、社会的なものや政治的なものより優先される、というのは、日本も同じなのだ。ただ、アメリカの場合は、何事も極端なので、それが最高裁レベルの判例にまでなってしまった。でも、アメリカのトレンドの10年遅れで日本でも同じ事が起こる、と言われているのでは、日本だってこのトレンドが現実になる可能性があるのである。
では、これはどうやったら回避可能なのか。それは、年末にブログでご紹介した、江原由美子さんの本の中で、以下のように示されている。
「異なる属性をもつ人々の間でも、『経験の共有』は可能である。アイデンティティの回復そのものを求めるのではなく、『貶められた経験を共有』することで、『他者を貶めることがない』社会の実現のために連帯することができるはずだ。このような連帯を可能にするためには、『アイデンティティの非本質化』という第二波フェミニズムの『文化主義』的方法論が、有効に機能するはずである。」(江原由美子『持続するフェミニズムのために – グローバリゼーションと「第二の近代」を生き抜く理論へ』(有斐閣)p195)
特権が失われた、という「貶められた経験」。ここから、「復讐」に向かうしか方法論がないと、白人労働者階級は思い込まされている。でも、「復讐」しなくてもよい。障害者や女性、黒人や様々なマイノリティは、そもそも以前から「貶められた経験」を持っていた。今ようやく、白人男性も、その経験を共有できた。それを奪い返すという復讐モードではなく、誰もが貶められるのは嫌だから、『他者を貶めることがない』社会の実現のために連帯しないか、と提起することは可能だと江原さんは述べる。これは、確かに時間はかかるけど、希望だと思う。
SNSにおいても、表現の自由を建前に、社会への怨嗟やルサンチマンに基づき、復讐心に燃えた書き込みをしばしば見かける。でも、そのような「貶められた経験」は他者への復讐ではなく、『他者を貶めることがない』社会の実現のために連帯するための原動力として活用することもできるはずだ。そのような社会的な連帯の可能性、つまりは政治的・社会的なものを否定するのではなく、アップデートして、これからのよりよい幸せをもたらす原動力として用いることはできないか。そう、夢想している僕がいる。