ほんまもんのエンパワーメント論

目の覚めるような切れ味の鋭いエンパワーメント論を御恵贈頂いた。
著者の北野誠一さんは、日本の障害者運動における理論的支柱のお一人である。僕自身は大学院生の頃、指導教官の大熊由紀子さんからご紹介いただいて以来のご縁で、14年前には、お二人と共にスウェーデンでリンクビストさんのお話しを伺うという素晴らしいチャンスも頂いた。その後、北野さんのフィールドであるカリフォルニア調査に誘って頂き、その後いくつかの編著もご一緒させて頂き、博論を書いた後から30代後半までの10年以上、外弟子的に学ばせて頂いた。支給決定のあり方やパーソナルアシスタンスを学んだスウェーデン調査も、カリフォルニアの権利擁護実践調査が下敷きになった『権利擁護が支援を変える』の骨格も、北野さんがいなければ生まれることはなかった、という意味で、本当に大恩人である。
北野さん(親しみを込めてそう呼ばせて頂いている)は障害者福祉領域で数多くの書籍づくりに携わってこられた。が、実はこの本が北野さんの待望の初単著、である。これまで単著執筆より現場支援を重視してこられた北野さんが、大学教授も卒業され、やっと時間が出来てまとめられた一冊である。興味がないわけがない。この本は、支援におけるステイクホルダー論や法制度における権利擁護課題と、本人と支援者の相互エンパワーメント論が、曼荼羅のような一体化された世界として示されていて、支援の羅針盤のような本である。気になるところを、何点かピックアップしてみよう。
「本人のおもしろい人生をサポートするということは、けっしてふまじめでいい加減なストーリーなのではない。それが楽しい人生をサポートすると書いていないのは、楽しいには、安全をキープしたおぜん立てのニュアンスが感じられるからである。おもしろいということは、人間主体としての投企性の問題である。その危険性を前提とした、賭けたものがなければ、私たちの自立生活は死んでしまう。まさに一期一会の思いで・一時を生きることを、『本人と支援者の相互エンパワーメント』は意味している。」(p47)
この短い文章の中に、人を支えるとは何か、の根源的な価値が詰まっている。慈善的な福祉は、確かに「楽しい」アクティビティを利用者に提供する。でも、そこに「安全をキープしたおぜん立てのニュアンス」が含まれている限り、それは支援者にコントロールされた暮らし、を意味する。こう書くと、「安心や安全を護ることが支援者の第一の役割ではないか」「そうしないと施設のコンプライアンスが護られないのではないか」という疑問が出てくるかもしれない。
でも、北野さんが指摘しているのは、支援とは「施設のコンプライアンス」や「安心・安全」のため「だけ」ではない、という点である。一人の人間が、活き活きと生きる喜びを持って暮らすとき、そこには「おもしろさ」がある。それは、「一期一会の思いで・一時を生きる」という「運命へのチャレンジ」をしている。それが「賭け」であり、「人間主体としての投企性」なのだ。その、ほんまもんの「おもしろさ」を支援することこそが、支援者と本人が紡ぎ出すエンパワーメントという関係性における、最大の魅力なのかもしれない。
では、その時に支援者に求められる立ち位置とは、どのようなものだろうか。
「私たちが必要としているのは、『自分で何とか事態を理解・掌握して、一緒に自分らしく面白く生きてゆきたい』という本人の基本的な希求を、『本人と支援者の相互エンパワーメント関係』において展開できる、本人と支援者の面白い相互変容関係である。(略)本人は、支援専門職にその生き様を決められたり、拘束されることなく、支援者のプロとしての意思決定・表明支援を介して、ますます『自分で何とか事態を理解・掌握し』、支援者のプロとしての技術を介して、ますます『自分らしく面白く生きて』ゆくことになる。」(p95)
ここで大切なのは、支援のゴールが『自分らしく面白く生きてゆきたい』という点にある。安心安全を護る、ことは、そのための手段になれど、目的ではない。現状の支援はともすれば、上位概念にある真の目的を忘れ、「手段の自己目的化」に矮小化されてはいないか? この部分に、北野さんは最大の警鐘を鳴らしているのである。
そして、本人が「支援者のプロとしての意思決定・表明支援を介して、ますます『自分で何とか事態を理解・掌握」し、本人が「ますます『自分らしく面白く生きて』ゆく」のを間近で感じするからこそ、支援者の仕事も「面白く」なってくるのである。そういう意味では、支援の物語、とは、「本人と支援者の面白い相互変容関係」そのもの、である。ならば、ここで問われるのは、支援者が本人と共に「面白い」と思っているのか、ということである。
ここで再び考えなければならないのは、「楽しい」と「面白い」の違いである。「楽しい」というのは、受け身的な空間であっても、瞬間的には生じうるものである。だが、「面白い」というのは、極めて能動的なものである。北野さんも「おもしろいということは、人間主体としての投企性の問題」と言っている。本人も支援者も、能動的に人生に賭ける(=投企する)からこそ、その責任と役割を自発的に担うからこそ、ほんまもんの「面白さ」が生じるのである。つまり「おもしろい」を実現するためには、本人が支援者に管理や支配されないのは勿論のこと、支援者だって、施設管理者や雇用主、施設の論理に従順にならずに、そこから自由になり、本人とともに、本人が「おもしろい」と感じることに、一緒に能動的に賭ける事が出来るか、が問われている。これは、認知症高齢者の支援でも、全く同じである。
北野さんはエンパワーメントを敢えて日本語に置き換えずに用いているが、訳すとするならば、「自分らしく・人間らしく共に生きる価値と力を高めること」(p99)と整理している。一般に訳語として用いられている「能力・権限付与」には、自己責任的な臭いがするとした上で、特に重度の知的障害や認知症の人など、意思決定・表明支援が支援の重要な鍵になる人の場合はなおさらのこと、支援者と本人との「共に」の行為が必要不可欠である、と整理している。だが、その際に問われるのは、「共に」における、支援者と当事者の関係性や、権力関係構造の問題である。北野さんは、こう指摘することも忘れていない。
「支援とは、支援を必要と見なされている利用者に対する介入行為なのであって、それが本人の自己決定・自己選択と同意に基づかない場合には、それは余計なお世話であるのみならず、本人の自由な生活を抑圧する可能性のある不法行為なのである。」(p173)
支援に携わる人々の中で、自らの行為が「本人の自由な生活を抑圧する可能性のある」ことに自覚的な人は、一体どれだけいるだろう? そして、確かに北野さんが言うように、アプローチの仕方を間違えば、支援者は抑圧者になる「可能性」があるのだ。その権力関係の危険性に、どれほど自覚的か、が常に問われている。そして、アプローチの違いによって、次のどちらにもなりうる、という。
「①重度の障害者を『援助を必要とする弱者』『援助者に依存する受け身的な存在』ととらえて、『相互役割期待-成就』関係を形成すれば、まさにそのような依存者として、本人はその期待に答えてしまう危険性が高いこと
②そうではなく、重度の障害者を『意志決定・表明支援を含む支援を必要とする生活主体者』としてとらえ『相互役割期待-成就』関係を形成すれば、まさにそのような、生活主体者としての人生が、『本人と介助支援者との相互エンパワーメント関係の展開』の中で創出される可能性が高いこと」(p161)
重度の障害者は、支援者との関係性によって、依存者にも生活主体者にもなり得る存在である。その際、支援者が重度障害者とどのような「『相互役割期待-成就』関係を形成」するか、が最大の分岐点になる。意志決定・表明に支援が必要な認知症高齢者や重症心身障害者が、『援助者に依存する受け身的な存在』とならずに、『意志決定・表明支援を含む支援を必要とする生活主体者』としてエンパワーメントされていくためには、関わる支援者の志向性や、障害者との関係性自体が、大きく問われる。そこで、北野さんは「権力関係の自覚化」の重要性を指摘する。
「自己実現等でなく、エンパワーメントという言葉を使用するのは、私たちの概念形成の前提に、ステイクホルダー間の利害・利益という力(パワー)の相克があるからだ。きれいごとで何とかなるように見える世界は、基本的にパターナリズムや力(パワー)のイネルティア(惰性・なれあい)に安易に依存した世界だと思って、まず間違いない。」(p95)
実に、実にシャープな分析である。支援者と支援対象者、あるいはサービスを求める当事者と支給決定の主体である行政、は、異なるステイクホルダーであり、異なる「利害・利益という力(パワー)の相克がある」。この歴然とした前提に目を向けることなく、「きれいごとで何とかなるように見える世界は、基本的にパターナリズムや力(パワー)のイネルティア(惰性・なれあい)に安易に依存した世界だと思って、まず間違いない」とまで言い切られる。だからこそ、異なるステイクホルダー間の、特にパターナリズムやなれあいの「犠牲者」になりやすい、援助対象者やサービス受給者のエンパワーメントこそが、必要不可欠だ、というのである。ここには、当事者間によるセルフアドボカシーなども、当然に含まれてくるだろう。本人の選択や決定を重視しない介入行為に毅然と「NO!」を突きつけるためには、「ステークホルダーA(サービス利用者)のもの申す市民性・当事者性や市民活動・当事者活動」(p53)としてのセルフヘルプ(自助)グループの存在が必要不可欠である。だが、現在の自助・互助論に対する北野さんの評価も、非常に厳しい。少し長い引用となる。
「私は、アメリカ、カナダ、スウェーデン、イギリス等に調査に行ったが、地縁関係における近隣の助け合い活動を強調している地域にはお目にかからなかった。むしろ、干渉し合わない個人主義を前提とした近隣関係の下での、地域社会内外で、様々な興味・関心・生きづらさを同じくする仲間活動としての『互助』のイメージである。
今後ますます、スマートフォンやパソコン等で様々な興味・関心・生きづらさを共有する仲間とのソーシャルネットワーキングを行う団塊の世代が高齢化してゆくとすれば、『互助』のイメージは、様々な興味・関心・生きづらさを同じくする仲間活動と言えるだろう。
そもそも、『自助』とは、可能な限り地域での自らの生き方・生き様を自己決定・選択してゆくことを目指す、各種のエンパワーメント戦略を意味し、さらにセルフヘルプグループ(SHG)のところで見たように、同じ生きづらさ・困難・障害・病気等をもつ仲間(ピア)の相互支援である『自助-互助』を意味する。
繰り返すが、欧米でも、また我が国のこれからを想定しても、近所の助け合いとしての『互助』より、干渉し合わない個人主義を前提とした近隣関係の下で、様々な興味・関心・生きづらさを同じくする仲間活動としての『互助』が重要となろう。」(p54)
最近の地域包括ケアシステムの議論に、文字通り正面から異議を唱える指摘である。だが、この指摘も、よくわかる。確かに、僕もスウェーデンに半年住んだが、「地縁関係における近隣の助け合い活動を強調している地域にはお目にかからなかった」。また、スウェーデンでのボランティア活動についてもちょこっと調べた事があるが、介助や見守りなどの直接ケアや支援活動よりも、「様々な興味・関心・生きづらさを同じくする仲間活動としての『互助』」活動が中心だった。例えば障害者領域でいうならば、サッカーやヨットなどを障害者と共に楽しむボランティア団体は沢山あっても、障害者の直接的支援は行政がする仕事、と公的責任をはっきり打ち出していたことを思い出す。
また、北野さんは団塊世代まっただ中の1950年生まれだが、団塊の世代が文字通り克服してきたのは、ムラ社会的な共同体の同調・従属圧力であった。繰り返し「干渉し合わない個人主義」と書いているのは、「干渉する集団主義」としての共同体にウンザリしてきた記憶が古くないからだ。そして、その「干渉する集団主義」には、あの日本型福祉の「亡霊」が見事にこだまする。
ご存じの方も多いと思うが、オイルショック以後の1970年代後半から80年代にかけて政府与党によって提唱された日本型福祉とは、欧米型の福祉国家論を切り捨てた上で、「個人の自助努力」「家族・近隣の相互扶助」「民間活力の活用」「ボランティアの推進」などを推進し、上記が機能しない場合の補完機能としての公的責任、という「残余主義的公助」の発想である。スウェーデンでは老人の自殺が多い、などという嘘をまことしやかに喧伝し、「干渉する集団主義」としてのムラ社会の中で、主として嫁や姑という女性がケア労働を無償で行えばよい、という発想が、この日本型福祉社会論の中には伏流している。そして、今の地域包括ケアシステムにおいても、特に「地域での支え合い」という視点で互助を定義する時に、この日本型福祉社会論の「亡霊」が息づいているのではないか、という北野さんの警鐘である。これには、この領域での実践に取り組む際の大切なヒントが隠されている。
「干渉し合わない個人主義を前提とした近隣関係の下での、地域社会内外で、様々な興味・関心・生きづらさを同じくする仲間活動としての『互助』というイメージ」という時、ムラ社会的共同体が個人に干渉して1人1人の主体性を潰すことがない、という前提がある。特に、一見すると声の弱い障害者や高齢者などは、この部分が護られないと、「手の掛かる人は入所施設か精神病院で面倒を見よう」という風潮も、「亡霊」のように、何度も蒸し返される。ここは、残余型ではなく、生存権保障として、ちゃんと「公助」が1人1人の生活保障をすべきである。この部分に「互助」や「自助」を担わせてはならない。
その「公助」による生活支援の保障の上で、「様々な興味・関心・生きづらさを同じくする仲間活動」としての「互助」が展開されるべきだ、というのが北野さんの主張である。その前提がないと、「可能な限り地域での自らの生き方・生き様を自己決定・選択してゆくことを目指す、各種のエンパワーメント戦略」としての「自助」は成り立たない。「自助努力」とは、「公助」の放棄でも、「互助」への丸投げでもない。「公助」という土台がしっかりしているからこそ、「エンパワーメント戦略」としての「自助」や、「様々な興味・関心・生きづらさを同じくする仲間活動」としての「互助」が活き活きしたものになるのだ。この部分が、今の日本では、特に行政や企業という「金を出す側」のステークホルダーの意向によって本末転倒なものになってはいないか、というのが、北野さんの問いかけである。
「あまりに介護保険制度の維持に汲々とする余り、『生活支援』なるものの、重要性と専門性を見誤っていると言われても仕方あるまい」(p58)
同書の中でも触れられているが、大学教員を早期退職して、この数年間、お母様の介護をしてこられた経験にも裏打ちされた北野さんの指摘は、誠に深く、重い。地域包括ケアシステムの展開のお手伝いをしている僕自身としても、何のための自助・互助・共助・公助なのか、をもう一度、原点に戻って考え直すきっかけになる一冊であった。「制度の維持に汲々とする」ことが、「互助」活動のインセンティブになってはならない。すると、団塊世代が必死になって抜け出してきた「干渉する・同調圧力の強いムラ社会」が復活するだけだ。そうではなく、同じ価値観や志向性を持つ仲間との協働活動としての「互助」に関わる中で、「生活主体者」としての「エンパワーメント」がなされ、「自助」が豊かになるはずである。「公助」はそのために、ちゃんと責任と役割を果たすべきで、介護保険という「共助」(僕はこれを「共助」と言うのは好きではないし、拙著でもそう書いたが)を護るためのみの、「互助」「自助」の方向付けは、「反エンパワーメント実践」につながりうる。最後に、北野さんの「反エンパワーメント」の定義をご紹介して、本論を閉じたい。
「その人間関係・社会関係において、他人や社会に仕切られ、自分自身をコントロールされてしまっているというミジメな実感や実態」(p164)
「反エンパワーメント」は認知症や重度の障害を持っている個人への支援というミクロ関係だけでなく、地域の中での「見守り支援」というメゾ・マクロ関係においても、残念ながら十分に起こり得ることである。そして、そのような日本型福祉の「亡霊」を地域包括「ケア」という言葉で表現しても、「きれいごとで何とかなるように見える世界」の背後には、「パターナリズムや力(パワー)のイネルティア(惰性・なれあい)に安易に依存した世界」が存在している。だからこそ、「ケア」から「エンパワーメント」への枠組み転換が必要不可欠なのだ。それを、長々書きながら、改めて強く感じた一冊であった。
追伸:エンパワーメント支援の迫力やリアリティから読み始めたい人は、3章以後を先に読んで、最後まで読み終わってから1章2章を読みすすすめた方が、頭に入りやすいかも、しれません。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。