ようやくの出会い

風呂読書は、たまに珠玉の言葉を導いてくれる。

「かつては作者の独創性、他に少しも依存しない独創性こそが創造の根源であり原動力であると考えられていた。それに対して引用の理論の目ざしているのは、ほかのテキスト(プレ・テキスト)からの直接、間接の引用、既存の諸要素(先立つほかのテキストの諸部分)の組みかえのうちに、作品形成の仕組みと秘密を見いだすことである。」「引用においても既存の諸要素の自由な組み替えという点で、創造活動はまぎれもなく働いている。むしろ引用の理論は、創造活動が決して真空の中で無前提に行われるのではないこと、創造活動の実際の在り様は既存の諸要素を大きく媒介にしていることを、かえってよく示しているのである。」(中村雄二郎・山口昌男著 『知の旅への誘い』 岩波新書、p32-33

単に「知」そのものに憧れていた10数年前、古本屋で見つけたこの本をワクワクしながら読んだ記憶がある。とはいえ、その記憶はあくまでも「ワクワク」というボンヤリした印象でしかなかった。引っ越しを期に、大方の本を研究室に運んでしまい、たまたま自宅に残していた本の中から久々に手に取った一冊。それを読んでいて、よもや自分が最近納得しつつあることそのものが書かれていた、とは思いもよらなかった。

論文の書き方がわからず試行錯誤していたとき、「先行研究のレビュー」なるものの意味がよくわからなかった。一期生で教えてくれる先輩がいるでもなく、「どうして誰も手をつけていない分野を勉強しているのに、レビューなど必要なのだろうか?」「どうせこの分野でろくな論文もないし・・・」などと、恐ろしい戯言をわめいていたような気がする。しかし、論文の杜の中に深く分け入るうちに、なぜ分野を特定せずにレビューが必要なのか、がようやくおぼろげながらわかってきた。他の人がこれまで考えて来たことに基づきながらどこまで辿れるか、他の論文が(ホントにダメならば)何処がどのようにダメなのか、に峻別をつけ、結局どこからが誰も言っていない自分のオリジナルなのか、を考えるのが論文なのだ・・・そんな至極「常識」を「納得」するまで、何年もの日々がかかった。論文に対する姿勢が定まらないから、何をどう書いていいかわからず、当惑するばかりだった。でも、大学時代にすでに読んだ文章の中に、その答えはちゃ~んと載っていたのだ。何を読んでたんだか。

でも、多分これを最初に読んだ大学1年生の頃、自分が「創造活動」に関わる、などとは思ってもいなかったんだろうな。おそらく、「他人事」としてのテクスト解釈の文脈で読んでいたから、記憶の端にも残らなかったのだろう。それから一回り弱。講演をしたり、論文を紡ぎ出す、という「創造活動」にまがりなりにも携わるようになり、プレテキストの解釈や組み替えが、どれほど自分のオリジナリティにつながるか、を深く実感する。同じ本、同じ資料、同じ法案、同じ論文を読んでいても、そのテキストへの関わり方や視点の違いで、その解釈は驚くほど変わってくるからだ。

その際大切にしなければならないことは何か。それは、自分がどのようなプレテキストを、どのような文脈で、どういう角度から解釈し、どのように組み替えようとしているのか? その組み替えている主体である自分自身の有り様に意識的であること、だと思う。つまり、情報を切り貼りしながらある論を構築して際に、自分が意識的・無意識的に取っている戦略(メタメッセージ)に自覚的であれ、ということなんだろう。自分の言葉に酔ってしまいがちのタケバタは、特にこのメタメッセージに自覚的でないと、墓穴を掘りかねない。そういえば最近も掘っていた・・・。やばい。

こういう至極真っ当なこと、学者としての当たり前のルールを、30にしてようやく出会い、気付けているのだから・・・いやはや、ほんと、まさにひよっこなんだなぁ。風呂読書で今日は少し謙虚になってきた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。