タコツボと糸通し

1週間ぶりです。

多忙だった、というのもあるけど、それよりも、ブログを書くことをためらっていた。たまに、そういう時がある。何だか人様にお見せするほどの文章が書けないよなぁ、と。別に自分のブログだからいいじゃん、そんな見方もある。どうせあんまり読んでいないよ、と言われたら、確かにそうだろう(アクセスログはとってないが、多分これは真実)。ただ、書き出してみた内容が、何だかタコツボ的隘路に陥っているよなぁ、と思うと、二の句が継げなくなってくるのだ。

どんな話題でも、根元的に考えることによって、一定の普遍性、というか、より多くの読者への共感をもたらす書き手がいる。そういう書き手の場合、対象となる話題は個別具体的だが、どんな話題であれ、通奏低音のようなものが流れていて、つまりはその話題に近しくはない読者にとってもしっくりくる何か、に気がつけばたどり着いている、そんな筆力の持ち主なのだ。どんな形でどこから穴ぼこを掘っても、確実にある地下水脈につながり、その水脈が普遍的真理(の一部)へと導いてくれる、そんな回路ができあがっている文章を書く人がいる。そういう文章を読んだ後、己が文章を垣間見ると、とほほ、としてしまうのだ。「どこにも通じていない」と。

読み手の僕は、「どこにも通じていない」文章を読まされるほど、腹が立つことはない。でもだからといって、通じている先が自分の掘り当てたある種の普遍性ではなく、何らかのイズムの受け売りであるのも、それはそれでつまらない。自分が気になる様々な現象の向こう側にどんな一定のリズム(通奏低音)が流れているか、それを耳をそばだてて聞こうとするのだが、まだきちんと聞き取れていないのだ。だから、その時々でリズムもノリもバラバラで、統一感も構築できていない。よって、「雑学」がある種の「教養」や「普遍的なるもの」「何らかの体系」へと昇華していかないのだ。これは自分の中での消化不足もあるけれど、それよりも絶対的なインプット不足でもある。知識がトリビアルな状態のままで、断片化していて、きちんと糸が通されていないのだ。でも、この糸通しはすごく難しい、そう感じさせれた。

一昨日、町村の職員の方々の前で自立支援法について講演させて頂いた時のこと。県からの説明をうけてもよくわからない、という参加者の皆さんに対して、僕が行ったことは、この「糸通し」であった。どういう背景で法律が出来て、来年再来年、そして数年後にはどういう見通しになっていく可能性が高くて、4月までにまず町村レベルでもしていかなければならないことは何か? こう書いてしまうとすごく単純だけど、これにデータを入れ込んで説明するのは結構大変だ。でも、そうやって断片的な知識を一本の筋をつけて「story」にして皆さんの前で提示すると、何割かの方々は深くうなずいて、「こういう糸通しだったのか」「これなら自分でも出来るかも知れない」とうなずいたり、納得して下さる。この瞬間が、こんな僕でも多少はお役に立つのだな、と嬉しくなる瞬間だ。ただ、他人様の、ごく一部の「糸通し」がうまく行っても、肝心の自分自身の糸通しが稚拙なままでは、まだまだ、とほほ、である。

まあ、こうやって、自分のダメさも含めて、書き続ける中で、多少は自分自身の「糸通し」ができ、それが自分でもまだ知り得ない地下水脈へと通じて、タコツボ的隘路から抜け出すことが出来れば・・・そんなことを考えながら、今日もポツポツ文章を書き続けているのです。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。