挨拶と排除

 

最近ポツポツblog読者の方が増えてきたようだ。様々なご感想を頂く。「私の文章も長いといわれるけど、あなたの文章はもっと長い」と仰るのは、昨日研究室にお越しになったライターの方。「大学の先生と言うより、ジャーナリスト、庶民派哲学者・・のようです」とは、先日別府でお会いした保健師のTさん。「私のエネルギー源になります」なんて過分なお褒めの言葉までOさんから頂く。タケバタとしては、字数制限も〆切もない媒体で、思うままに好きなことを書いて発散しているだけなので、嬉しいのを通り越して、恐縮するばかりだ。インチキ哲学者(きどり)のタケバタは、自分の「エネルギー」発散のためにのみ、今日も「長い」駄文をコリコリ書き付けるはずです。すんません。

で、先述のライターの方は、来年度の本学の入試パンフレットに関する取材でお越しになられた。なんでも研究のことを取材して、写真入りで載せる、とのこと。むむむ・・・僕なんぞを学科の代表にしていいのかなぁ、それに写真なんてなぁ・・・。不安で一杯、のはずだったのだが、さにあらず。やはり「出しゃばり」タケバタの地金が出てしまいました。一つの質問に延々20分以上しゃべり続け、そのうち本棚の前で撮影するから、と場所を変えられてもマシンガントークは続き、気がつけば予定の60分。僕自身が研究者とジャーナリストの「あいだ」でウロウロしていること、自立支援法と「価値中立」問題、「諦め」ないための理論追求・・・などしゃべりたいことを、カメラでバシバシ撮られている間もしゃべり続けていた。

実は元写真部のくせにファインダーを向けられるのが大の苦手なタケバタ。いつも撮られるときは変な顔をして誤魔化していたのだが、今回はしゃべりに気を取られているうちに、変な顔をする間もなかった。もしかしたら、生まれて初めて、まともな写真が撮れているかも、と内心期待したり。カメラマンのHさんには、以前ゼミの報告書作成の際にもお世話になったのだが、今回もファインダー越しに私の話に加わって下さったので、カメラを意識せずにおしゃべりに夢中になれた。いい写真があったとしたら、Hさんのお陰だ。CDに焼いて頂ける、ということなので、ちょっぴり楽しみだったりする。その一方、きっと私の文章をまとめるのは大変だろうなぁ・・・。僕が逆の立場だったら、「過剰なる言葉」にウンザリしていたかもしれない。前回の文章で、たたみ掛けて話をすることの「構造的排除」性を考察したはずなのに、また同じ過ちを繰り返している・・・。あーあ、進歩ないねぇ。ライターのKさん、すんません。

と、謝ってばかりいても仕方ないので、毎度のことながら「風呂読書」で気になった言葉を少々。

「ここに『あなた』に向かって語りかけている一人の人間がいる。『あなた』に祝福を贈り、『あなた』との対話を開始することを切望している一人の人間がいる。それを伝えることに『挨拶』の本質は存在する。(中略) 『挨拶』を贈るものは、『パロールの贈り物』が『あなた』に届かず、届いても黙殺されるという『リスク』をあらかじめ引き受けている。私は自分の脆弱な脇腹をまず『あなた』に曝す。『あなた』は私を傷つけることができる、私は『あなた』によって傷つけられうると告げつつ、『挨拶』は贈られる。」(内田樹「レヴィナスと愛の現象学」せりか書房p69-70)

教授会後に同僚と1時間近く立ち話をしていて、風邪気味だった体から毒素を抜くための、いつもの長湯。るんるんと読み始めた内田先生の本を読んでいて、ハッとさせられた瞬間だ。以前、僕自身も挨拶について考えたことがある(挨拶と組織文化)。その中で、大学で挨拶が出来なくなっている自分について、こんな風に書いていた。

「ほんとは挨拶したいけれど、誰も挨拶しかけてくれないから、気まずくて、恥ずかしくって、挨拶を返してくれなかったら嫌だなぁ、なんて思っているうちに、挨拶しないことが『当たり前』になっていくのではないか。」

このときは、結論として、「じゃあこれから挨拶しよう」という何のひねりもないオチになったのだが、その後半年間、結局あんまり進歩しなかった。二学期が始まって学生がわんさか構内にあふれていると、やっぱり「気まずさ」や「恥ずかしさ」を先取りして、挨拶にいたらなかったのである。「何だか悲しいよなぁ」と思いながら、でもそれ以上何も進まなかった。そう、何も進まない、ということは、「『あなた』に祝福を贈り、『あなた』との対話を開始すること」を僕の方から断絶していることになるのだ。僕は「『パロールの贈り物』が『あなた』に届かず、届いても黙殺されるという『リスク』をあらかじめ引き受け」ることを拒絶している。「自分の脆弱な脇腹をまず『あなた』に曝す」ことによって、自分が「あなた」のよって「傷つけられうる」機会を排除しているのだ。自分に近しい人、話したい人、関わりのある人にしか「挨拶」しないタケバタは、つまりそれ以外の、これまでご縁がなかった方々に「祝福」を贈る余裕すらなかった偏狭なる人物なのである。なんだか、やな奴だね。

前回の続きで書くと、「たたみ掛けてしゃべる」ことも「挨拶しない」ことも、どちらも「構造的排除」だ。これって単純にいえば、「過ぎたるは及ばざるが如し」。話したい相手には過剰に話して、一見話ずらそうな相手には「黙殺」している。どっちにしたって、まっとうな「『あなた』との対話」が構造的に排除されていることには変わりない。そう、対話していると思ってきた場面の少なからぬ数が、「独り相撲」だったのだ。

なるほど、これが「話が通じない」「しっくりこない」と感じた時に生ずる、ある種の「むなしさ」の感覚の正体なのね。僕はこれまで「しっくりこない」ことを他責的に結論づけていたけれど、たぶんに己のリスクテイク不足でもあるのだ。そう、拒否されるかもしれないけれど、まずは「自分の脆弱な脇腹をまず『あなた』に曝す」というリスクをとる、その上で、先制攻撃的に相手の話を封じずに、じっくり耳を傾ける・・・。ここからのみ、僕が本当に望んでいる「対話」が立ち上がるんだよなぁ。くどいけれど、僕にはくどすぎるほど何度も言い聞かせないと、また「構造的排除」に戻ってしまうので、今日は備忘録的に前回と同じ話を書き連ねてしまった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。