風穴を開けるためには

 

私たちが、ある本なり考えなりを知った時、琴線に触れる、あるいは腑に落ちる時って、どんなときだろう。

それは本の一節なりある理論なりが、自分を「呼んでいる」と感じる時である。「そうそう、そやねんなぁ」とか、「思っても見なかったけど、まさにその通り!」とか。出会う以前は知らなかったが、出会ってみると、その出会いの正当性をあたかも出会う前から予期していたような、「ようやく出会えたよ!」というか、そんな「うなずき」の瞬間。僕が本を読み続ける理由も、そういう「うなずき」を求めて、という部分が少なくないような気がする。

一方、論文なり、ブログなり、こうして第三者の目に触れる文章をつらつら書いていて、じゃあこのタケバタから出てくる文章のどこかに「うなずき」を提供できる何かがあるのだろうか、とたまに考え込むことがある。書いている事に意味がないんじゃないか、とか。そして、リアクションが全くない文章だと何だかすこしガックリきている自分を考えると、やはりどこかで「他人のうなずき」を欲望している自分がいるのかもしれない、と感じることもある。

例えば、「アメリカ・カリフォルニア州の精神病院に関する情報公開に関する法改正について」という内容の文章を書いていたとする(いや、実際ある雑誌で近々載せてもらうんですけど・・・)。これって、「ボリビアの○○遺跡における共同溝の設計様式に関する一考察」(という論文があるかどうか知らないけど)と同じくらい、普通の読者にとって「遠い」文章だろう。少なくとも、業界とは関係ない一読者として読んでいたら、一見そう見える。でも、書き手としてのタケバタにとってみると、すっごく大切に感じるから、わざわざ慣れない英語と格闘して、こういう文章を書くのである。でも、往々にして書き手としては、その対象を「書ききった」ことに自己満足してしまい、その対象の概要は触れても、何がどうあなたにとって大切なのか、という部分に触れずじまいになってしまう。まあ、学術性の高い文章では、科学性や客観性という「しきたり」を求められるので、それはそれで仕方ないかもしれないが、それでもなお、一読者の視点に戻ると、So what?(だから何なのよ!)、と言ってみたくなる。だから○○なんだよ、と付け加えるだけで、思いの外「うなずける」内容かもしれないのに・・・。

例えば、前回と今回、福祉労働という雑誌に載せてもらう、「アメリカ・カリフォルニア州の・・・」って奴も、実は日本のことを考える上で、結構大切なものになるのではないか、と個人的には思っている。日本のように、精神病院という密室での権利が剥奪されがちな現状をどう改善していくか、それに情報公開がどう役立つか、そしてそういう法改正に権利擁護団体がどう携われたか、というのは、日本での実践を変えて行く上で、大きく参考になる、と思っている。もっと言えば、これは日本の障害者分野の制度設計を、障害者やその支援者の側から「対案」として提起していく上での、いい見本の一つ、とも言えるかもしれない。つまり、大変局所的でピンポイントについて調べているのだけれど、実は穴を開けきれば、大海原に通じているかもしれない、という内容なのだ(もちろん、まだ僕は穴を開けきっているわけではないが・・・)。

ここで大切なのは、その際「穴を開けられるか否か」だと思う。どういう対象であってもいい。それを右から左に翻訳するのは、昔否定された「横文字理論学者」様のすることだ。そうではなくて、その調べたある事実が、日本の現実とどう対応しているのか、そこから何が導き出されるのか、を局所的なある一点を元にして、社会システムの問題にまで俯瞰して考えることが出来るか? これが、穴を開けられるか否か、の最大のポイントだと思う。つまり、文章を書く時はある一点に集中しているけれど、その点には「風穴が空いているか」「どこかに通じているか?」を問いかけながら、書く必要があるのではないか、と思う。それが大切な内容だ、と直感すればするほど、常に「風穴」を気にしなければならない、と思うのだ。

正直言うと、10年前のタケバタは、10年後に「アメリカ・カリフォルニア州の精神病院に関する情報公開に関する法改正について」などという主題で文章を書くとは思っていなかった。だが、10年前から、どんな文章を書くにせよ、それが「わかりやすい」必要がある、とは思っていた。その当時、わかりやすさ、とは文字通り、読みやすく、すっと頭に内容が入ってくるものである、と思っていた。でも、今は、わかやすさは、それ以外にもある、と思っている。それは、先述の「風穴が空いているか否か」だ。普通の人が読み慣れない、聞き慣れない論点、あるいは一見自分とは関係ないと思える論点であっても、読み進めていくうちに、これって「○○」と関係あるかも、と思ってもらえる・・・。そんな「わかりやすさ」だ。それは、書き手が感じた、「これってすごく大切」「他人に伝えたい」という想いを、ある主題を通じて伝える、という作業を通じて浮かび上がってくる「わかりやすさ」だと思う。

ただ勿論、先述の「○○」は自分が思っていた以外のものが入るかもしれない。自分としてはそこに「日本の精神病院を変えること」というものを入れたいと思っていても、読み手によっては、「社会システムの変容のあり方」と入れてくれるかもしれない。まあ、今回の僕の文章はそこまで深くはないけれど、欲を言えば、そういう風に読み手によって様々に解釈可能な、解釈の多義性を備えたテキストこそ素晴らしい、なんてその昔大学時代に習ったような気もする。書き手として、この多義性をあるコンテキストに内包することはめっちゃ難しい、と今になってようやく気づくのだけれど、この「多義性」(=つまりどれほど開かれているか)って、今まで使ってきた言葉に直すと、どれほど風穴が空いているか、といういことだと思う。

昨今医療や福祉の世界で、闘病記や克服記、大変さを綴ったエッセーがたくさん出ている。中には心打たれるものや、思わず感動したり、勉強になったり、大切な様々なことを教えてくれるものもある。そういう本は「風穴」が空いていると思う。一方で、どれだけ激しい体験であっても、それほどドギツイ内容であっても、「風穴」の空いていない体験談は、読んでいて「息苦しい」。僕の文章も、それに似た「酸欠状態」を読む方にもたらしていないだろうか? そんなことを考えてしまう。どこにも連れて行ってくれない、どこにも抜け出せない文章ほど、読んでいてしんどいものはない。「うなずく」瞬間とは、ある主題からノックされ、自分の中にスーッと風が入り込んでくる瞬間だと思う。これは、読む方ではなく、書く方が穴を開けておかないと、流れてこない「風」だ。

読み手に「風」を届ける努力を、微力ながらも僕もしていきたい、そんな風に僕は今、感じている。

あ、それならあの原稿も書き直さないと・・・

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。