見誤らないために

 

最近とみに考えていること、それは自分がやっていることの、相対的位置づけ、である。

「ある事柄の『意味』は、常に、より包括的なコンテクスト、外側のコンテクストへの参照を前提にしている。それに対して、『情報』は、そうした外側のコンテクストへの参照を欠いている。オタクは、自らが関心を向ける情報的な差異に関して、それをより包括的なコンテクストに位置づけて、その重要性を説明することができないのである。」(大澤真幸『不可能性の時代』岩波新書、p87-88)

「より包括的なコンテクスト」への「参照を前提」にしているのが、確かに研究の大前提である。だが、研究者がタコツボ化(=オタク化)されて久しい。自分がおもろい、と思っていること、問題や、と怒っていること、そういった感情的な「情報」を「意味」のあるまとまりに束ねて、「より包括的なコンテクスト」への「参照」の中で論じる。これが、研究の醍醐味のはずだ。だが、「意味」のあるまとまりに束ね損ねていたり、あるいは、「より包括的なコンテクスト」への「参照」なき、内輪の議論に終始している場合も少なくない。自家中毒的な症状を示している文章が、あふれている。そして、自分もそういう部類に入っているとしたら、福祉オタク、なのか

「真実は細部に宿る」という箴言を、一方では信じている。しかし、「より包括的なコンテクスト」への「参照」なく、細部に「のみ」拘泥することは、結局足下すくわれる、というか、本質を捉えきれず、事態を矮小化したり、あるいは構造的問題を隠蔽するのに荷担することにも繋がりうるかもしれない。「外側のコンテクスト」で何が言われているのか、それと「参照」する(=結びつける)なかで、この目の前で生起している時代をどのように位置づけることができるか。こういう視点を持たない限り、日々の生々流転する現象に必死に対応し続けた(=その細部には最大限のパフォーマンスで参画した)結果として、気がつけば、大きな失敗に至る可能性もある。大局観、という言葉が、頭の中に点滅している。

福祉という現場は、一方で目の前にいる人の生活そのものと直結しているリアリティを持つ。「この方の安心・安全がどう護れるのか」という抜き差しならぬ問いの前に常に置かれている。その一方で、その首尾範囲や条件設定などは、常に政治的・財政的パワーポリティクスの中で揺れ動くものである。今日の常識的議論の前提は、その常識を支える主義・人間観などに色濃く反映されているが、それは所与の現実だけでなく、揺れ動くものである。介護保険制定時に、あれほど「権利としての福祉の確立」が叫ばれたのに、その数年後に「財政破綻」の基に介護給付や労働者賃金の圧縮化に向かったのも、揺れ動く現実の反映の表れである。揺れ動く現実の表層的な情報に一喜一憂することなく、でもその核心をたぐりながら、抜き差しならぬ問いにどうこの現場で取り組めるか、とりあえずの解を出せるか、が問われている。

そして、それを研究者として外部から批判するのか、また、実践者として内部にコミットするのか、もまた問われるところだ。御用学者に陥るリスクは、常にある。だが、現実を見据えない理想論を言っていても、何も変わらない。抜き差しならぬ問いを前にして、変えるべきではない目的と、柔軟になるべき方法論の混同・誤解の危険性は常につきまとう。それとどう対峙しながら、歩みを進めるか。そのためにこそ、「より包括的なコンテクスト」への「参照」が絶対不可欠なのだ。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。