バトンについて

 

久々のエントリー。

今月末に二本の原稿〆切+センター試験やらテストやら大学雑務+相変わらずの研修が重なり、10日以上書く余裕もない日々が続いていた。そして、今日は、そう、相も変わらず「かいじ」号の人。今日は、いつもと違って最終の一本前に乗れております。移動中だから、ぼんやり原稿が打てる。

で、今日の東京出張は、私の母校、阪大人間科学部のボランティア人間科学講座が、「店じまい」するので、それを期に作るメモリアル報告書のための座談会。お茶大で、講座出身の4人の仲間と議論するチャンスがあった。研究分野は、社会心理、教育援助、人道支援、病院ボランティア、そして僕のノーマライゼーション論と実にバラバラ。でも、共通していたのは、「ボランティア人間科学講座」という得体の知れない講座だからこそ、自分が何をやっているのだろう、という説明責任と、他の人は何をやっているのだろう、という好奇心から、タコツボ化せず、幅を拡げて議論を縦横無尽にし続けてきた、ということだろうか。大学院生の時は、それこそしょっちゅう議論をしていたが、あれから6年以上。お互いに現場を持つ中で、久々に出会った人びとが、しかし共通の何か、に関して議論をスパークさせる内に、あっという間に3時間というタイムリミットが過ぎ去っていた。

ボランティア、というと、世間の人は、やれ「無償」だの「偽善」だの、「奉仕活動」だの、その言葉にこびりついた特定のイメージに埋没しやすい。しかし、今日の議論の中にも出ていたのだが、私たちがあの講座で学んだこととは、そういう矮小化された固定観念ではない。むしろ、その対極にある、「枠組みを疑う・作る」という意味での、メタ知識的なものであろうか。知識を鵜呑みに学ぶための講座、ではなく、どうすればその知識を持って現場を変えられるか、もっと言えば、現場を変えうる知識とは何か、あるいはそもそも現場を変える事が必要なのか、といった根本から疑い抜く、「枠組みへの問い」というものと向き合う智慧のようなものを、あの講座から「学恩」として受け継いだのかもしれない。だからこそ、ボランティアという語も、矮小化された「善意」「無償」「公共」ではなく、社会的な何かをより高める・伝える・変えるためのツールとしての、「ボランタリー」という用語法であった。something newなんだけど、とりあえずどう命名していいかわからないから、一時的に「ボランティア」と名付けるような感覚だ。

しかし、面白かったのは、講座内で専攻も指導教官も違う5人が、議論をする中で、結局その「根っこ」のようなものとしては、同じモノを受け継いでいる、という点だ。アプローチは違っても、まだ見ぬ「同じ山」に登ろうとしている、その中でお互いを高め合おうとしている。同床異夢、だけれど、何かが一緒、そういう差異と共通性を改めて再確認した一日だった。

そして、共通と言えば、みんなその受けた「学恩」を、誰かに、何らかの形で伝えなくてはいけない、という社会的使命感のようなものを持っている、という点で共通していたことだろうか。我が我が、ではなく、うけとった何かの社会性や公共性を重要視した上で、次代に託せるバトンとして認識している。そういう意味での「根っこが同じ」という感覚を共有することが出来た。それこそ、「同じ釜の飯を食う」仲間だからこそ、見えてきた共通性。何だか、久々に「母港」に帰還したような清々しさを感じた。講座としての実態はもう亡くなった。しかし、そのソウルを受け継ぎ、次代にバトンする、というミッションを共有できたひとときだった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。