三度目の正直?

 

ここしばらく、毎週出張が続いていた。今日は台北からの帰りの成田エクスプレス。まるまる1年ぶりの台北である。

台湾の魅力に気づいたのが、昨年のゴールデンウィークの休暇旅行。で、昨年11月は、初めての海外での国際学会発表の地を、台湾に選んだのは、勿論、研究上の成果の整理、というのが第一義的だが、それと同じくらい!?、台湾にまたお茶を買いに行きたい、という強い動機?が作用した為でもある。

そういう不純な動機で足を踏み入れた国際学会での発表。実は博論を書く前に、博論には海外発表が必須条件である事を知り、偶然神戸で開かれたリハビリテーションの学会で発表したが、あのときは「資格要件」欲しさであり、きちんとした内容ではなかった。その後、院生も終わった頃、メンバーの末席に入れて頂いた研究班の報告を、これも神戸で開かれた世界精神医学会で発表することになったのだが、当日セッション会場に来てみると、あれまあ、悲しいことに日本人だけ、である。座長がそれを確認した後、途中で他国の方が入ってきたら切り替えますが、日本語で発表してください、と宣言。二回目の海外発表は、形式上英語、実質は日本語だったのである。

そういうわけで、1年前の台湾の学会発表が、実質的な海外での学会発表デビュー、であるが、まあ、惨憺たるものだった。文章は、英語のスペシャリストMさんに見て頂いたので、それは問題ない。ただ、日本の現状をそのまま英語に直しても、よほど日本に興味のある研究者以外には、その内容が伝わらない。また、会話に関しても、いくらアメリカによく出張に出かける、といっても、自分の関心領域にぴったりの人とばかり議論しているので、その他の、また研究者同士の議論などについて行けない。さらには、恥ずかしい話だが、皆さんの議論の輪の中に、まず入っていけない。そういうダメダメ続きで、撃沈したのである。

それが悔しくて、以来毎日の通勤時、ipodに入れたNYタイムズの一面読みとBBCラジオのダイジェスト、後はVoice of Americaのゆっくり英語バージョン、を流し続けてみた。また、7月のイギリス、そして11月の台湾と、学会は異なるが、兎に角チャンスが巡ってきたら、海外発表をするんだ、と決めた。台湾に出かける前は、来年7月のトルコの学会発表のエントリーも、時間が切迫するなかで、泣きながら書いた(どれも、またまたMさんにおせわになりました。本当に大感謝です)。さて、1年ぶりの台湾。多少の成果はあったのだろうか。

結論を言えば、少しは進歩した。しかし、まだまだ改善の余地が大きい、といったところだろうか。

ヒアリングは、話し方に独特の癖のある人や、読み上げ原稿を恐ろしい早さで棒読みするオーストラリア人の英語はさっぱりだったが、それ以外は、ある程度わかるようになってきた。ipodも地道に1年聴き続けたら、多少の効果はあるものである。習慣事は非常に苦手な僕だが、流し続けるだけ、なら、何とか継続出来た。

発表は、多少は日本のコンテキストを知らない海外の研究者にも通じる何か、は入れられたような気がする。アジア・太平洋のNPO・サードセクター研究者が集まる学会だったので、障害者運動から始まった支援組織が、政府の補助・委託関係の中に入るうちに、サービス提供への拘束状態に陥っている(straitjacket vendorism)実情を説明した上で、それを乗り越えるために、どのようなアドボカシーが必要か、という変革の可能性を、ある支援組織の事例研究から紹介した。ちょうど香港の社会サービスNPOが新自由主義改革やNew Public Managementの流れの中で、どういう問題に陥っているのか、という発表がその前にあり、かなり重なる論点があり、議論が出来たのも嬉しかった。とはいえ、まだまだタコツボ的研究の領域から抜け出せていないようで、リスナーも少なく、質疑応答を通じた有意義な成果を得ることは出来なかった。

以前の阿呆な僕なら、そのことを指して、「みんなその領域に興味がない・無知だからだ」などと「他人のせい」に安易にしていた。あるいは、「日本語ならもう少し惹きつけられる話が出来るのに」と「語学のせい」にもしていた。だが、ここ3回の海外発表でわかったのは、語学でもリスナーが悪いのでもない。自分の理解不足が一番の原因だ、ということだ。国内学会であれば、福祉の学会であればなおのこと、日本のコンテキストを共有しているだけでなく、その分野の専門家の集まりであるので、多くの前提を省いた議論が出来る。国際学会でも、自然科学系やそれに近い学会であれば、専門家としての知識があれば国際的に共有出来ているものも多いため、それほどハードルは上がらない。だが、社会科学系の、特に福祉などの「その国の文化や歴史的展開に大きく依存している」分野であれば、他国の事情に精通していない普通の研究者は、その文脈依存的な論点の何がどう問題なのか、の重要性や深刻性がわからない。そして、それは、国際学会での発表における前提であり、それを指して「他国の人はわかってくれない」と言うのは、そこに参加する資格すらない妄言なのである。

では、どうすればよいのか。だからこそ、世界的な潮流(例えばNew Public Managementや準市場改革など)や、理論的枠組み、といった、通文化的な何かを縦糸にして、時刻の内容を横糸に編み込んでいかないと、伝わらないのである。そのことを説明するために、一つの補助線を引いてみる。

ちょうど帰りの飛行機で、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んでいたのだが、内田樹氏によれば、村上春樹と違って、司馬遼太郎の小説は国内で高い評価がされているが、海外ではほとんどが翻訳がされていないそうである。だからといって、前者と後者でレベルの差がある、とは思えない。では何が違うのか。それは、ある文化にどれほど文脈が依存しているのか、という事の差だと思える。確かに村上春樹の小説には、芦屋の浜辺や東京の紀伊国屋、札幌の雪景色、といった、日本的な情景が勿論色々出てくる。だが、彼の小説を英語で読んでいて感じるのは、そういう情景説明は、その文脈を知らなくても、読み流せる範囲内である。現に僕自身、パリの裏町やサンディエゴの灼熱の大地の記述を読んでも、イメージはわいても、それ以上のことはわからない。そして、村上春樹の小説における場面とは、あくまでもイメージを喚起するだけのものであり、それは登場人物達の内的世界に色を添えることが主題とされているからである。

一方、司馬遼太郎の小説は、村上春樹と比較した際、日本史や幕末という文脈に大きく寄り添うからこそ、価値がある小説である。本文中に何気なく出てくる原敬や高橋是清といった名前。直接触れることは無くても、そういう人々との直接・間接の関わりの記述の中から、明治という時代の激流を、読者は肌身に感じることが出来る。そして、これは小学校の日本史的知識くらいは共有されないと、リアリティーを感じられない種類のものだ。あるいは、祖父や曾祖父の代から口伝された事がある、という伝承の形でも良い。とにかく、日本という特定の文化で共有された「何か」を理解出来ているコミュニティーを読者対象にしているからこそ、グッと来るのである。文章修行時代に英語で小説を書いていた、という噂のある村上春樹とは、全く手法も考え方も違うのである。

だいぶ横道を逸れてしまった。僕が言いたかったのは、村上春樹的な組み立てが必要な場面で、司馬遼太郎的な組み立てをしていた僕自身が、大きく場を誤解していた、ということが言いたかったのだ。(勿論、それ以前に二人の巨匠になど、比べられるはずもないが)

きっと、司馬遼太郎だって、その気になれば、日本史を知らない読者層に対しての物語は書けたはずである。だが、彼はそれが出来ても、選ばなかった。僕の場合は、そういう書き方がある、という事実も知らず、またそれも出来ず、選べない状況にいた。ここ1年間で3回の海外発表をする中で気づいたのは、そういう場の違いの認識と、それに対する対応のあり方への気づきだった、と言えるだろう。ようやく、入口には立てた。だが、まだ中身がまだまだなのだ。

後、ついでにいうと、僕は学会の懇親会というのを、偏見の眼差しでみて、毛嫌いしていた。あそこはコネクションを作る場であり、そういう人にへつらうような場には行きたくない、と高威張りしていた。ただ、フレンドリーな方々の多い今回のアジア・太平洋会議に参加している中で、何だかそれって自分の器の小ささと了見の狭さの表れではないか、と思い始めていた。そして、そんな矢先に次のフレーズと出会ってしまう。

「私は人間を弱者と強者、成功者と失敗者とには分けない。学ぼうとする人としない人とにわける。」

これは、社会学者ベンジャミン・バーバーの言葉だそうだが、僕は昨晩、台北のホテルで風呂読書のお供にした、『リフレクティブ・マネージャー』(中原淳・金井著、光文社新書)を通じて知った。ちょうど学会発表を終えて、知り合いの研究者と打ち上げ(お酒の無い火鍋屋さん)もすまし、ホテルに戻って荷造りもほぼ終えた後、の一風呂である。この言葉は、緊張から解けた身体に、アルコールなんかよりも遙かに染み渡った。そう、せっかく学会発表の場で学ぼうとしているのに、懇親会という場で学ぼうとしていないのは、全くアホよね、と。

同書では直後に、人間の信念(マインドセット)について、いったん出来てしまうとなかなか変えるのは難しい、とも述べていた。僕自身も、こういう凝り固まった信念(偏見)のとらわれから、なかなか自由になれない。しかし、どんな場からも「学ぼうとする人」ではありたい、と強く希求する。それであればこそ、少しずつ予断や偏見、自信のなさからも自由にならなければ。先達の箴言をかみしめながら、そんなことを考えていた。

そういう意味でも、海外の学会発表を3回続けてみて、ようやくその大切さを今にしてわかった、のかもしれない。相変わらず、のろまな学びではあるけれど

そうそう、件のお茶について。今回もたんまりお茶を買い込みました。すっかりはまったプーアル茶は、1年分以上は買い込む始末。帰国してみたら、日本は急に冷え込みが深くなっていた。いよいよお茶がよく似合う季節の到来だ。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。