「文章は省略と誇張だ」
これは我が師匠、大熊一夫氏の名言だ。『ルポ・精神病棟』(朝日文庫)などのルポタージュで医療や福祉現場の実態にギリギリと迫る姿勢は、現在でも全く変わらない。最新刊、『精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本』(岩波書店)は、イタリアへの長期取材をもとに、「精神病院は必要悪」という私たちの偏見を木っ端みじんに砕いてくれ、なおかつオルタナティブとしてのコミュニティメンタルヘルスの実践をエピソード豊かに紹介してくれる名著である。本業以外でも、料理の腕前も超一流で、阪大の退官記念は講演+オペラのリサイタルをするほどの本格的な歌手、男前でお洒落…と、師匠に勝てるところが全くない不肖の弟子である。お陰で、料理とファッションの楽しさの入口を囓られて頂きました。
その師匠の文章論の極意が冒頭の一行につまっている。確かに新聞や週刊誌は「見出しで決まる」。いかにタイトルを魅力的で、かつ本文の内容を凝縮させたものにするか。読者の「読みたい」という心に火をつけることが出来るか、が問われている。研究者の論文は「誇張」はしてはいけないけれど、でも、どの部分を売りにするのか、をメッセージとして最前面に出すことは実に重要だ。あと、読みやすさも。ずっと内弟子のように近くでその仕事を垣間見させて頂いて、文章の推敲を何度も重ね、言葉を実に大切に扱ってこられた師匠の後ろ姿は未だに目に焼き付いている。「タケバタ君は文章が下手だねぇ」と言われながらも、真っ赤に添削してくださったお陰で、少しは読みやすさのある文章に改善された、のかもしれない。
そして、最近、件の「文章は省略と誇張だ」という名言を実感する場面が多い。それが、ツイッターである。
このブログは書きたければどれほどでも書ける。それが時として思考の散逸、寄り道、回り道に繋がることもあれば、思考のドライブがかかって書き終わる頃には見知らぬ空間に連れて行ってくれることも(たまには)ある。だが一方ツイッターは、140字という縛りがある。既に多くの識者が指摘している事だが、俳句や連歌の様に、字数制限の中でだからこそ、ワンフレーズの中にどれほどの内容を込めようか、という「省略の美学」的なものがある。また、「誇張」とまではいかなくても、効果的な表現で目を惹くことは、膨大な呟きの大海の中にあっては、時として大切である。まさに、ツイッター的な言説空間こそ「省略と誇張」がものをいう空間なのである。
それゆえ、如何に情報量を圧縮して濃厚な140字を創り出すか、に僕は今、興味がある。そういえば、これも師匠の名言として、「文章は半分くらいに縮めるとちょうどよい」というのもある。私たちは最初の草稿では冗長な文章になることは少なくない。だからこそ、出来上がった文章をドンドン刈り込んでいく中で、締まりのあるキビキビとした文章が出来る、という。半分に削るのは苛酷だが、でも2割3割刈り込んでいく作業の中で、無駄な部分がそぎ落とされるのを実感する。ツイッターでも、20~30字オーバー気味に書いてみて、その後、どの部分が不要・冗長か、を検討しながら縮減していくのは、よい練習になる。だから、あれはあれで、よい文章修行になりうる、と思う。
うちの奥さんが「ツイッターひろし」と揶揄するので、遊んでばかりいるのではありませんよ、と、ちょっぴり反論した今日のブログであった。(今日もtakebataで呟いております)