スイッチの転換点

 

朝日が実に気持ちいい甲府である。

一昨日、ゼミの学生達とインド料理屋に出かけ、ナンを食べ過ぎたようで、体重増加と胃もたれを併発し、昨日は朝・昼とも食べずに水分補給だけで過ごした。すると、72キロ台に。夕食はチキンステーキにルッコラのサラダ、それからワインにアテのチーズ、とたらふく食べても、今朝計ったら72キロ台は変わらず。ちょうど低炭水化物ダイエットを始めて3ヶ月。当初体重が80.8キロだったから、三ヶ月で7,8キロ減、とは自分でもなかなか優秀だと思う。

そして、ダイエットという方法を通じて、色んな新しい発見があるのが、面白い。ちょうど一ヶ月前にこのブログに引用したガンディーの発言を、一昨日実体験していた。

「私はたくさん食べます、消化不良になります、医者のところへ行くと、錠剤をくれます。私は治ります。またたくさん食べて、また錠剤をもらいます。こうなったのは薬のせいです。もし錠剤を使わないとしたら、消化不良の罰を受け、二度と過食しないようにしたでしょう。医者が間に入ってきて、過食を助けてくれたのでした。それで身体は楽になりましたが、心は弱くなってしまいました。このようにして最後には、心をまったく抑えられないような状態になってしまいました。」(ガーンディー、『真の独立への道』岩波文庫、p78)

インドつながり、ではないが、ゼミの飲み会で、酒を抜いたのもあって、焼きたてのナンを「今日はいいよね」とパクパク食べる。飲み放題なのに学生達がビールやウィスキーといった単価の高いものを注文しないので、やさしい「マハール」の店員さんは、マンゴーラッシーと追加サラダを無料で追加してくださった。ただでさえボリュームが多い「マハール」なのに、さらに量が多くなり、美味しいからついついパクパク。そういう循環の果てに、帰宅後、お腹がはち切れんばかりに、久しぶりに苦しかったのだ。

そこで、ふとガンディーの先の名言を思い出した。そう、以前はこういう時にはパンあたりを飲んで、苦しさをすっと紛らわせていたよな、と。「呑む前に飲む」というCMも、そういう風潮を煽っているよな、と。すると、「食い過ぎた」という身体からのシグナルを薬で掻き消す事によって、身体からのシグナルをドンドン読み解けないモードに編成されていったのかな、と。ガンディーは「心は弱くなってしまいました」と言っているが、この「弱さ」とは、身体からのシグナルから耳を塞ぐことと、自己コントロールが可能だという幻想の肥大化の双方を生み出しているのではないか、と。そして、この自己コントロール幻想は、やがて「強いられた自己決定」につながりはしないか、と。

ちょうどこないだの福祉政策の講義で優勢思想について取り上げた。その際、出生前診断の話にも及んだ。障害を持つ子が生まれると胎児の段階から分かった時、あなたらどうしますか? その問いかけに、多くの学生達が困惑していた。診断は受けない、受けても産む、あるいは受けたら出産は躊躇するかもしれない。実はこの議論には、「強いられた自己決定」の議論がまとわりついている。診断を受ける事も自己決定、産む・産まないも自己決定。そして、その結果責任も自己決定。しかし、障害があるから不幸な子供になる、というのは、社会の支援の不備であるにも関わらず、そんなスティグマを内面化して判断する事自体、実は「障害は不幸だ」という一元的価値観に縛られた、「強いられた自己決定」の側面はないか、と。

この「強いられた自己決定」の論理は、先の「自己コントロール幻想」ともつながる。飲み過ぎたって食べ過ぎたって、薬を飲めばOK。この論理は確かに楽なコントロール方法である。何せ、自分自身の行動を自分で律することがなくとも、薬という他者がコントロールしてくれるし、しかもそれは「自己コントロール」であるという「幻想」を結果的に抱かせてくれる。だが、実際のところ、それは「薬への依存」を強いる風潮をもたらし、ついには「心をまったく抑えられないような状態」に陥れる可能性もある。そしてさらに言えば、その依存的なマインドになれば、薬物依存症の経験を持つ倉田めばさんの言う、「薬物依存者が薬物をやめると依存が残る」という状態とも地続きになっている。
http://www.yuki-enishi.com/guest/guest-020417-1.html

医学そのものを否定している訳ではない。が、胃薬は、文字通り毒にも薬にもなる。身体のシグナルを、「食べ過ぎだ」「苦しい」といった辛さも含めて、聞き取れる間、向き合える間は向き合って、どうしようもない時に補助的な、最終手段として薬を活用する間は、まだ「薬」でいられる。だが、安易に薬に依存して、それを使えば苦しさなんて大丈夫、というマインドを形成する中で、「心をまったく抑えられないような状態」に転がりこんでいく場合、いつしか「薬」は「毒」の機能を持つ。そして、その「毒」は、自らの依存的な現実を、自己決定だから仕方ない、自分が悪い、と内面化して「強いられた自己決定」を強化する機能をも持ちうる

昨日、朝昼と抜きながら、ボンヤリと「強いられた自己決定」や「依存」のスイッチが見えた。そして、自分が一旦あちら側に傾き欠けていたのだな、とこちら側から眺めている自分にもまた、気づいた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。