「自分事」となる一冊

 

良いルポルタージュは、今まで全く無関心だったり未知だったり、それゆえに偏見をもっていたりする分野であっても、いや、未知の分野だからこそ、その問題をどう捉えたらよいか、のきっかけを与えてくれる。まさに道しるべ。単にある出来事を感情的・扇情的にルポするだけでなく、その問題の背景について丁寧に掘り下げ、法や制度、社会構造の本質にまでアクセスする深堀をしている。ルポを通じて自分自身の内面とも通じる何かに共鳴し、ゆえに読者は心を打たれる。「こんな世界もあったなんて知らなかった」と他人事的感動で終わらず、「この世界も含む私」の自分事として問題を捉えられるようになる。

こないだ読み終えた『逝かない身体-ALS的日常を生きる』(川口有美子著、医学書院)は、まさに上記のような意味での「良いルポルタージュ」だった。

この本を読みながら、僕自身がこれまでALS関係の書籍を何冊か買っていながら「積ん読」して一切手を付けていなかった理由が理解出来た。それは、昔の古傷を思い出していたからだ。

ALSの重度の方のように人工呼吸器を付け、24時間介護が必要な状態で生活をしておられる方と、直接のやり取りをさせて頂いた経験は、実は過去にもある。事故で頸椎損傷の重傷になり、人工呼吸器を付け、24時間介護が必要なAさんとそのご家族に、その昔知り合った。「口文字盤」といって、瞬きでのコミュニケーション方法がある、ということも、その方から学んだ。例えば「て」という言葉を伝えたいなら、50音を書いた紙をもち、「あかさたな」と介助者が言う。「た」の部分で瞬きがあれば、次は「たちつて」と介助者が発言し、「て」の部分での瞬きで確認する。同じALSの当事者の橋本さんによれば、「400字を入力するのに1週間かかる」そうだ(『ケアされること』岩波書店)

ただ、コミュニケーションに障害があることと、本人がコミュニケーションの意志がないこと、は大きく違う。むしろ、コミュニケーションをしたいのにそれが難しいという障害、と書いた方が分かりやすい。自分の意志が伝えられないという事は、本当にストレスが大きい。僕の知り合ったAさんも、事故後のコミニュケーションの困難性のストレスから、円形脱毛症を沢山作っておられた。余談になるが、例えば強度行動障害といって自傷行為を繰り返す重い知的障害の方も、実は自分の想いが伝えられない事のストレスを自傷という形で表現しておられるのではないか、と最近は感じている。また意志がない、などとラベリングされがちな重症心身障害の方も、舌や表情などでものすごく豊かな意志表現をされておられる様子も、西宮の青葉園にフィールドワークをしながら学んだ。繰り返しになるが、コミュニケーション障害とは、コミュニケーションの意志がないのではなく、むしろしたいのに出来ない、出来にくい、という障害なのだ。

Aさんやご家族と出会って、その方の抱えるコミュニケーションを支える「コミュニケーションボランティア」を集められないか、と相談された。地元のボランティアセンター等とも連携しながら、福祉系大学の学生ボランティアを探したり、などもしてみた。ただ、色々あって長続きせず、だんだん僕も疎遠になってしまう。その後、ある夜、喉がたんで詰まったことを知らすブザーに介護疲れの母親が気づくのが遅く、その方は亡くなってしまわれた。亡くなられた事へのショックだけでなく、自分があまり役に立てなかった事への自責感も強く感じ、以来、その問題自体から遠ざかっていたのかもしれない。

ただ、今回その古傷を越えて読んでみよう、と思ったのは、非常にミーハーな理由。同書が大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した、と知り、少し警戒レベルを下げたのかも知れない。そんな良い本だったら読んでみよう、というエクスキューズを自分なりにつけて、読んでみた。本当に、読んで良かった。あちこちに線を引きまくり、ドックイヤーを付けまくっていた。例えばこんな箇所にも。

「私たちに欠如しているのは患者を死なせるための法でも医療でもなく、あるがままの生を肯定する思想と、患者にとって不本意なレスパイト入院などせずに済むような、良質で豊富な在宅介護サービスではないだろうか」(p181)

そう、今の日本では「良質で豊富な在宅介護サービス」がないことによって、「不本意なレスパイト入院」(=つまりは家族の休息と安堵の為の入院)が創り出されたり、今も議論がまた出ている尊厳死法案などの「患者を死なせるための法・医療」が生まれたりしている。繰り返し言うが、「良質で豊富な介護サービス」があれば、「あるがままの生」を享受出来るはずの人が、そのサービスが不足するために、入院させられたり、尊厳死に追いやられる現状がある。これはAさんの生活を垣間見ても深く同意する事であり、精神病院や入所施設に追いやられた方々にも共通する課題であると感じる。そして、その先には、ナチスのT4計画(ガス室での障害者殲滅計画)に代表される優性思想の系譜をやはり感じる。

どうも脱線気味なのでこの本の紹介に戻るのだが、この本の良さは、ご自身のお母さんがALSになった後、どのように介護してきたのか、を綴った闘病記である。だが、単なる闘病記ではない。私たちが普通アクセスしにくいALS当事者がどんな事を思い、感じているのか、を深く理解出来る。また、それを扇情的に煽るのではなく、むしろ「あるがままの生」とは何か、を母を通じて著者が学ぶ軌跡を伝えてくれている。

「重度障害者としての生き方を母は学びはじめていた。私たちになされるままになることに徹底的に抵抗をしめすことで、ケアの主体の在り処を教えてくれていたのである。」(p60)

介護者の一方的な感情ではなく、母と著者の格闘的コミュニケーションの中から著者が何に気づき、常識とは違うオルタナティブな視点を獲得していったか、その中で「ALS的日常」とは何か、を筆者がどう感得していったか、を、むしろ淡々と書きつづっている。まさに、僕自身にとってもこの問題をどう捉えたらよいか、のきっかけを与えてくれる、よい導きとなる一冊だったのだ。そして、この本がフックとなって、自分が蓋をしていたAさんのことを思い出し、それもフックになって、その後出会った重症心身障害や強度行動障害の方、あるいは入所施設や精神病院で長期間社会的入院・入所を余儀なくさせられておられる方の現実と、「ALS的日常」の現実が、深い部分で通底している事にも気づかされたのである。そう「良質で豊富な在宅介護サービス」が「ない」がゆえに、入院・入所や尊厳死などに追いやられている点で共通しているのではないか、と。

今日は大学の講義後、厚生労働省に向かう。障害者自立支援法に変わる新たな法律の議論をする、「障がい者制度改革推進会議」の「総合福祉法部会」委員の一人となったので、その会議に出かけるのだ。前回は当事者が、今回は私も含めた研究者が、一人5分間の持ち時間で発言を許されている。

原稿は前回の会議で送っていて、厚労省のHPにアップもされている。ただ、自分の言葉でもう一度言い直そう、と思っている。その際、大切な視点は「ケアの主体の在り処」だ。「良質で豊富な在宅介護サービス」がないがゆえに、社会的に排除されている彼・彼女の「主体の在り処」を取り戻すための、地域移行であり地域生活支援である。その事を第1において、今日の発表をしたい。

そういう意味で、この本は私にとってまさに「自分事」となる一冊であった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。