トンネルの向こう側に

結局飛行機は2時間遅れでイスタンブールから成田に帰ってきた。

今回、房総半島から成田空港への着陸途上の風景を見ていて、改めて日本の緑の多さが目に付いた。イスタンブールだってもちろん緑はあった。だが、なんと言ったらいいのだろう、その緑の濃さが、断然日本の方が多いし、また緑の割合も、特に水田があるからだろう、日本の方が目立つのだ。蒸し暑いのは少しぐったりだけれど、緑の多さと瑞々しさは、日本特有のものなのかもしれない。あ、今、車窓で出会ったあじさいも。

今、成田エクスプレスの中でPCを開いている。毎度のこと、出張からの帰りは列車の中でPCを叩いているような気がするのだが、今回の大きな変化は列車が新しくなった事で、モバイル環境も整ったこと。また、NEX車内では民主党の過半数割れを伝えるニュースもやっている。つまり、以前に比べて情報の入力量が車内であっても格段に増えたのだ。ということは、まだ帰国して2時間程度なのだが、すっかり異化作用された何かは失われつつある。というわけで、今回の旅の間に書いてきた心象風景の最終回は、忘れないうちに新宿に着くまでに書き留めておきたい。

イスタンブールでは、時間があれば散歩をしていた。お気に入りのコースは、ペラ地域のホテルを出て、テュネルを使わずに坂道をテクテク歩きながら降りていき、ガラタ棟の側を通って海沿いまで下り、ガラタ橋で魚釣りをしている人を眺めながら、向かい側のエジプシャンバザールまで出かけて帰ってくるコース。だいたい小一時間くらい。帰りは、テュネルの駅前で1TL出してその場で絞ってくれるオレンジジュースをごくごく飲んで、元気があれば歩いて、疲れていればテュネルで上まであがるコース。

このテュネルとは、ガイドブックによれば世界で一番距離の短い地下鉄。ま、雰囲気は地下鉄というよりケーブルカーに近い感じ。急勾配のところを3分ほどで駆け上がる(下りる)、10分間隔で運行されている路線。

トルコ最終日の朝もちょうどテュネルに乗った。イスタンブールの風景を目に焼き付けようと朝から出かけ、アヤソフィアやボスポラス海峡も遠くに眺めてから、いつものように駅までオレンジジュースを飲む。ちょっと疲れていたからテュネルに乗ろうとしたら、目の前でちょうど行ってしまったところ。10分ほど待ちぼうけになった。一瞬、乗り過ごすなんて、という日本の急ぎ足モードでいらっとしかけたが、ちょっと待てよ、旅先なんだし、と思い直し、ぼんやりテュネルの座席に座っていた。

その時、トンネルの入り口にいて、いろんな事が浮かんできた。確かにトンネルとは、A地点とB地点を物理的に結ぶものである。今回の場合なら、ガラダ橋とペラ地域を結んでいる。だが、暗い通路を経て異なる何かを結ぶ役割とメタレベルで捉えたらどうだろう。

大学一年生の冬、アパシー状態になっていて、自分の無力さにほとほと打ちのめされて、何故か高野山への一日旅行に出かけた事がある。真冬のさむーい高野山の宝物館でぼんやり曼荼羅を眺める、という怪しい旅をしていたのだが、その時思い起こしたのは、行きの南海電車の風景だった。ガラガラの車内で、宅地も見えなくなり、トンネルをくぐりながら、極楽橋に向けてどんどん登っていく。その中で、何というか、いろいろな世俗的なことから切り離されていくような感覚を持っていた。たぶんお遍路さんなども、そういう身体感覚を持っているのではないか、と思う。そして、切り離された後で、高野山という「異国」を潜った直後から、いろんなご縁もあって、様々な局面がダイナミックに動き始めたことを思い出していた。

トンネルは、AとBをつなぐもの。普通は両者に土地が入るのだが、ある種の心理状態で、ある種のトンネルを潜ると、それは過去と未来、諦めと希望、恐れと期待、あなたとわたし、わたしと世界・・・など、いろいろなものを繋ぐバイパスになりうるのではないか、と感じた。そういえば文学作品でも、トンネルや井戸などが、異世界への通路として象徴的に書かれている作品が多い。村上春樹などはその代表例のような気がする。

あと、村上春樹と言えば、「遠い太鼓」という作品を思い出していた。彼は、ヨーロッパ各地で住まいを変えながら、長編小説である「ノルウェーの森」「ダンス・ダンス・ダンス」などを書き続けていた。その時の旅行記が「遠い太鼓」である。僕は、彼の小説と同程度にエッセイも好きなのだが、特に一冊を挙げるとしたら、この「遠い太鼓」だろう。今までになんども読み直した。

今回「遠い太鼓」をイスタンブールで思い出したのは、なぜ彼が日本という場を離れて長編小説を書いていたのか、ということ(の理由の一端)が、わかったような気がしたからだ。あの本のテイストは、心温まる旅行記、というより、村上春樹という一人の人間の内面の旅模様の部分が多分にある。太宰治の「津軽」とはテイストは全く違うけれど、ある種、同質の、旅先の風景に仮託して、自分の中の内界と外界を明らかにしていく作品。そういう風に思えてきたのだ。

前回のブログにも書いたが、異国で、仕事を持たずにいるということは、「世間から求められていること」がない状態である、ということだ。これは自ずから「やりたいこと」「できること」だけと向き合うことを意味する。はっきり言って、この状態は、特にアイデンティティが固まっていない段階では、結構きつい。僕は以前、調査で5ヶ月スウェーデンに住んでいたが、その時も「世間で求められていること」から離れていたので、自分の「やりたいこと」「できること」と真正面から向き合わざるを得ず、特に最初の2ヶ月ほどはホントにしんどかった。ついでに書くと、実はかつてトルコの大地震の後、神戸からの義捐金を携えたチームの端くれとしてトルコに行った事もあるのだが、その時も「できること」が全くない己を深く恥じて、ボロボロになっていた。

話がえらく脱線していったが、結局、異国でのチャレンジとは、トンネルを通過するように、周り(=世間)から隔絶された、己との対話の部分が大きい。だから、リスクも大きくて、夏目漱石ですら、神経衰弱になった程である。でも、このトンネルをとにもかくにも抜けることによって、時として、何らかのブレークスルーが生じる。それこそ、何らかの創発を産み出すものであるし、潜る以前とは違う自分の誕生にもつながるのかもしれない。

今回のトルコでは、学会での出会いや学び、気付きも大変多かったのだが、むしろトンネルを潜ろうとしている自分がいるのだ、とテュネルに乗っていて、ふと気づいた。このトンネルから出た先に、どんな風景が待っているのか、それはわからない。でも、7年前のスウェーデンでも、11年前のトルコでも味わえなかった、トンネルの先への期待を、今、持ち始めている。このことだけは、日本の雑踏にまみれる前に、書いておきたかった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。