スクリーン依存という「夢心地」からの脱却

昨日の朝、東京出張のために、足早に駅に向かう途中で気づいた。

「あ、携帯忘れた」
電車の時間がギリギリなので、取りに行けない。以前なら後悔したり、その後ずっと落ち込んだりしたかもしれない。でも、その時の僕は、むしろワクワクしていた。
「あ、これはいよいよ『インターネット安息日』の実験ができるぞ!」
実際、スマートフォンを持ち歩かなかったので、妻とやりとりする為に何度か新宿駅付近の公衆電話を探したが、それ以外、「つながり」環境から離れていることにより、行き帰りの電車の中で、こんなに集中して本を読んだり考え事が出来る、とは思いもよらなかった。それほど、僕はスマホやパソコンを通じた、ネット上の「つながり」に中毒状態であり、依存症であったのだ。それをハッキリと気づかせてくれたうえで、別の生き方を模索するための、大切な指針となる本と出会った。
「人間は外界への旅を愛する。つながりを強く求めるのは人間の本質である。しかし、自分の内面に立ち返って現実の生活を見つめなおしてこそ、スクリーンに向かっている時間が実り多いものとなるのだ。この両方のニーズがかなう世界を目指すべきではないか。」(『つながらない生活-「ネット空間」との距離のとり方』 ウィリアム・パワーズ著、プレジデント社、p21-22)
フリーの作家・ジャーナリストのパワーズ氏は、職業上、パソコンやスマートフォンなどの「スクリーン」と毎日にらめっこしている生活だった、という。だが、ある日、近所の池でボートを漕ごうとしてスマホを池に「水没」させた時、飛行機の機内にいるときと同じような、ネット上の「つながり」が切れた解放感を味わった。その経験から、実は自らが「つながり至上主義」者であると気づき、その中毒状態から抜け出しながら、適度な距離を取り、折り合いをつけるにはどうすればいいのか、という「内面の旅」に出始める。
そこまでなら、自己啓発本にも出てきそうな展開だが、この本を出張帰りの新大阪の本屋で眺めて、ついつい買ってしまったのは、第二章で取り上げられた先人達のラインナップに意外性を感じたからだ。プラトン、セネカ、グーテンベルグ、ハムレット、フランクリン、ソロー、そしてマクルーハン。どれもスクリーン至上主義時代を生きていない先達達が、なぜ、この本に登場するのか。そのあたりは本書を読んでほしいのだが、上記の先達は、実はみな、「つながり」の方法が激変する転換期に生きており、彼らの叡智の中に、「つながり」に巻き込まれず、自ら内省する時間を確保するためのヒントが隠されているのである。それを僕は、こんな風に受け取った。
1,プラトン→つながりから距離を置く。
2,セネカ→じっくり自分の考えと向き合うために、つながりを減らす。
3,グーテンベルグ→ブラウザを開かずに文章を練る。
4,シェークスピア→紙の本や手帳を活用して、一つのことに集中する。
5,フランクリン→何かを諦めるのではなく、前向きな自分の「内面の探求」を促すための儀式・ルールを作る。
6,ソロー→内面を大切にする場所と時間を確保する。
7,マクルーハン→スクリーンのみ、よりも、お顔の見える関係作りを重視する。
実にどれも書いてみれば「当たり前」の事ばかり、なのだが、特に昨年の震災以後、ずーっとツイッターの画面から離れられない依存的な自分がいた。フェースブックも色々つながりをもち、Gmailと共に、ブラウザ上に常駐させて、「つながり続けよう」とする自分がいた。間違いなく僕もパワーズ氏と同じ「つながり至上主義者」になっていたのだと思う。その間、内面的な気づきもあり、色々じっくり考えたいのに、それだけの時間がとれない事にいらだっていた。だが、忙しくしているのは、スマホやPCなどのスクリーンに齧り付いている部分も多分にある。現に、昨日それを止めてみる「インターネット安息日」にしたら、随分色んな事が考えられたり、内面の探求に繋がる良質の読書も出来た。また、放ったらかしにしていたモレスキンの手帳を、アイデアメモとして取り始めると、色んな事が見え始めた。そういう、自分の限界(と決め込んでいた部分)を超える為にも、「つながらない生活」は、大きなヒントを与えてくれたのだ。
あと、もう一つこの本に出てきたエピソードで、今でもその衝撃の渦中にある逸話がある。
「彼(=マクルーハン)は、人びとがなぜガジェットに夢中になるのかを説明するために、ギリシア神話のナルキッソスを引き合いに出した。ナルキッソス青年は水に映った自分の姿を別人と勘違いし、恋焦がれた末に死んでしまう。『この神話の要点は、人間は別の何かに投影された自分に、たちどころに魅了されるということだ』。同じように、わたしたちが新しいテクノロジーにひかれるのも、それによって自分が別の何かに投影されるからである。しかし、ナルキッソス同様わたしたちも、身体が外界へと引き延ばされて自分がどこかへ投影されるという、ガジェットの作用に気づかない。この混乱はある種の夢心地を伴う。なぜかわからないが、ガジェットから目を逸らすことができないのだ。」(同上、p284)
本当にぎくり、とした。
ツイッターのタイムラインを追うだけでなく、たまに「@つながり」を確認したり、朝起きたときにツイッターの「@」マークが表示されていないか、とか、フェースブックの「お知らせ」に赤で数字が入っていないか気になっている僕は、ある種の「夢心地」でいた。それは、「別の何かに投影された」自分への陶酔、という意味で、ナルキッソス青年と同じなのだ!!!!! この衝撃は、痛々しさと共に、自らに突き刺さる。そんなに自意識の歪んだ姿に「夢心地」になっていたなんて・・・。
このフレーズに出会って、夢から醒めてしまった。
もちろんツイッターやGmailなどのつながりのツールから、多くの恩恵を受けているのは、事実である。頑固爺さんのように、そのつながり自体を否定したりはしない。だって、随分そのつながりから正の恩恵も受けてきたのだから。だが、「つながり至上主義者」として、スクリーン依存症になり、「夢心地」で我を忘れるほど埋没していては、単に阿呆になったも同然である。自分の内面の探求が出来ない、その為の時間が確保できないことが一番つらい。筆者は最後にこう書いている。
「あなたが考え方、暮らし方をどう選ぶかにかかっているのだ。」(p334)
本当に「わかった」というとき、それは行動変容を伴うはずだ。このフレーズは、僕自身が授業や研修の場で言い続けて来たことである。その刃は、今、再び自分に突き刺さっている。ただ、そんなに不安はない。ちょうど、「三食教」から自由になって、もう二年になろうとしている。あのときは炭水化物を減らしながら、自分自身の固定観念と向き合っていた。今度はその延長線上で、スクリーンへの依存も減らしながら、内的自己を見つめる時間を確保すればいい。そういえばツイッターを始めたのは、ダイエットが進み始めた2010年3月からだった。今思えば、食事への依存の代償行為として次に選んだのが、スクリーン、だったのかもしれない。
もう、そういう依存なく暮らしたい。真剣にそう思い始めている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。