対立を超える対話に向けて

原発や沖縄米軍基地、あるいは精神病院に関して、「それは必要だ」という人と、「それはいらない」という人々は、今の日本社会で大きく対立している。そして、こう対立して固着することが、疾病利益的に良い、と思う人々も、残念ながら存在するようだ。

さて、この問題をどう考えたらよいか。そう思っていた時に、3年前に書いた拙著をめくってみて、びっくり。その解決のヒントになるようなことを、当時の僕は書いていた。現時点で、自分が考え進めるためのヒントとして、当該部分を備忘録的に掲載しておきたい。
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言語哲学者のオースティンは、陳述文の中には、単に生起した事実・出来事について記述する「事実確認的発言」だけでなく、「行為遂行的発言」と命名される、別形態の発言がある、という。
「行為遂行的」という名称は、「行為」(action)という名詞と共に普通に用いられる動詞「遂行する」(perform)から派生されたものである。したがって、この名称を用いる意図は、発言を行うことがとりもなおさず、何らかの行為を遂行することであり、それは単に何ごとかを言うというだけのこととは考えられないということを明示することである。(オースティン一九七八、一二頁)
(略)
「原発」を推進する側の論理として、「代替エネルギーの安定的供給には、まだまだ時間がかかる」「原子力発電所の存在がある種の核抑止力になる」「安価な電気を安定的に供給する為には必要不可欠だ」「高度な原子力技術を持ち続ける事で、世界のリーダー的存在になれる」と言った価値前提がある。あるいは、「沖縄の米軍基地」を容認する側の論理として、「日米同盟での戦略的重要性がある」「北朝鮮や中国の潜在的脅威から日本を護るために必要不可欠だ」という価値前提がある。だが、これらも事実確認的言説に見えて、行為遂行的言説に過ぎない。本当に「原発」や「米軍基地」が必要かどうか、は、無くしてみないとわからないのである。だが、推進側にはその存在が「正しい」という立場に拘泥され、「原発」や「米軍基地」がゼロになった場合の電力供給や安全保障に関する具体的なシナリオが描けない。その代わり、これまで「出来ない一〇〇の理由」を必死になって構築してきた。原発災害は、事実確認的言説と行為遂行的言説の取り違えがもたらした惨事でもあった。
だが一方で、反「原発」や反「沖縄米軍基地」運動も、「出来る一つの方法論」を具体的に提示できていただろうか。他国で原発や米軍基地を無くした事例などを論拠としても、反・非「○○」は「正しい」という価値前提に基づく行為遂行的言説を事実確認的言説と取り違えて発言していれば、「正しさ」を巡る互いの綱引きの段階を超える事が出来ず、「泥仕合」になってしまう。両者が「説得」モードで互いを批判しても、お互いが「納得」できない限り、「地すべり的移行」は起きない。
では、どうすればよいのか。まず、お互いの推進・反対の論拠となる価値前提の違いをハッキリとさせる必要がある。どのような背景や思惑、不安等があって、推進・反対の論拠が構築されて来たか、について、お互いの立場を超えて学ぶ必要がある。そのことを精神科医の名越康文は次のように述べている。
「福島第一原発の事故後、原発反対派と原発推進派がすごく対立していますが、その対話は、多くの場合、不毛なものに終わっているように見えます。反対派が推進派と話すときには、相手の中に自分と同じ要素を見つけつつ、自分の中に原発推進賛成派の人の論旨を見出すような営為がなければ、その議論は避けがたく不毛なものになってしまうでしょう。」(名越二〇一二、一九八頁)
この発言は、横塚の「重症児を自分とは別の生物とみるか、自分の仲間である人間とみるか(その中に自分をみつけるのか)の分かれ目である」という論理と通底する。「自分とは別の生物とみる」ならば、それは「反―対話」でしかない。「相手の中に自分と同じ要素を見つける」、つまり相手の意見の「中に自分を見つける」ことが出来ないと、対話は始まらないのだ。
例えばあなたは原発反対派であるとしよう。原発推進派という自分とは真逆の意見を持つ人が、どのような価値前提と内在的論理に基づいて、そのような推進・賛成の見解を構築したのか。それを、批判や糾弾という審判的・評価的態度で決めつけるのではなく、虚心坦懐に「自分の中に原発推進賛成派の人の論旨を見出すような営為」をすることが出来るか。意見(論理)も感情も大きく対立する問題に関しては、その感情的嫌悪感の波に呑まれやすい。だが、一方的で「反―対話」的な「説得」「恫喝」「糾弾」ではなく、対話の中から両者の「納得」を探るためには、まず自らと相手の立場に関する「枠組み外し」を徹底的に行う中で、膠着状態での安定の基盤にある「一次的存在論的安定」そのものを問い直す必要がある。
さらに言えば、「原発」や「沖縄米軍基地」問題は、国論が二分した状態で、何十年も「一次的存在論的安定」状態が続いている。その悪循環構造がなぜ止まらないのか、何が構造的制約なのか、についても考える必要がある。この悪循環構造が解決しないことは、誰にとって、何のメリットがあるのか。つまり、この構造の背後にある「世界の定立」とは何か、についても考える必要がある。最近では、その「世界の定立」に関して、アメリカの思惑という補助線を引くことにより、日本がアメリカの属国状態に置かれる事を「世界の定立」とする事によって、第二次大戦後の復興と経済的繁栄を勝ち取ってきた、その代償としての「原発」であり「沖縄米軍基地」である、とする言説が見え始めている(例えば吉見二〇一二、孫崎二〇一二)。
「原発」や「沖縄の米軍基地」についても、「どうせ」「しかたない」「無理だ」という言説は、明らかに宿命論的呪縛そのもののである。一方で、ただ反・非「○○」と唱えているだけでは、表面的な対立という悪循環構造から抜けられない。この表面的対立構造を超えて、「構造的制約」や「世界の定立」そのものに向き合う事を通じて、「○○」であり続けることにより、どのような「自分の権利を獲得」する機会を失っているのか、を理解する事が可能になる。この視点を持つと、事実と価値を取り違える失敗を繰り返さなくてもよくなる。
「『蓋』の上の人格」に気づき、蓋を開け、箱の外に出ようとすること。これはこれまで自らが「正しい(客観的な)世界観」と思い込んでいた価値前提に対して「正解幻想」というラベルを貼り直し、「枠組み外し」を行う事である。その中で、支配的言説(=ドミナントストーリー)を単に否定する(Aに対して非Aを対置させる)のではなく、その信念対立の前提についての現象学的還元を続け、「世界の定立」を問い直し、ドミナントストーリーを「非中心化」することによって「脱実体化」させる、という「地すべり的変容」に持ち込むことでもある。このような「枠組み外し」のプロセスに自ら一歩踏み出すことによって、「蓋」の「下」に潜む「真の<明晰>」に出会い、「生き方を解き放つ」ことが出来る。このプロセス全体が、「その循環のプロセスを含む循環性を認識すること」を通じて、「『みずからがいま書きつつあるメカニズムそのもの』を対象化しうるエクリチュール」を体得する、という「学習過程」そのものでもある、と言えるだろう。
そして、このようなプロセスを体感できる人こそ、「問題の一部は自分自身」であることに気づき、「反-対話」の論理を超え、自らのコミュニケーションシステムの不全感をまず変えようとする「対話」の論理を身につける事が出来る。そして、このような真の「対話」の論理の中から、「出現する未来」を導き出す事が出来る。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。