届いて久しぶりに一気読みしたのは、『R.D.レインと反精神医学の道』(コトヴィッチ著、日本評論社)。毀誉褒貶はなはだしいレインの著作とじっくり向き合い、評価できる部分を抽出し、レインへの批判にも誠実に向き合う、優れたレイン論であり、レインの著作へのイントロダクションとしてもぴったりな一冊。
僕は10年前、東日本大震災の直後、自分自身が気が狂いそうになったときに、「ひき裂かれた自己」を読んで文字通り自分のことが書かれていると思い、それをブログに書いたし、拙著『枠組み外しの旅』でもそのことを検討した。でも、レインを系統立って読んでいないので、すごく気になっていた存在だった。
この本では、反精神医学、としてひとくくりにされるクーパーやサズ(本書ではサースと表記)、そしてバザーリアのイタリアの民主精神医療とレインの著作を対話させながら、その共通性と相違性もしっかりと検討しているのが、実に面白い。その中で、レインに入る前に、トーマス・サースに関する評価が非常に学び深かった。
「彼は、国家やその他のいかなる共同体組織であっても、精神的苦痛という問題に何らかの役目を果たすことを容認などしていないのだ。サースの主張によれば、精神を病んでいると形容される人々は「生きる上での問題」に苦しんでいるのであり、精神を病むとは、社会が私たちに期待する様々な役割を実行することができないと言うことなのである。精神障害者への保護的アプローチをとる既存の「制度精神医学」に変えて、彼は「契約精神医学」を提唱している。彼が言わんとするところは、「生きる上での問題」に苦しんでいる人々は、国家の介入なしに自分に適していると思える援助を求める権限を法律的に与えられるべきである、と言うことである。」(p155)
「サースの反国家運動が自由意志主義的右派(libertarian right-wing)の立場から運営されていると言う点である。この立場は、援助を要する人々に対応する際にコミュニティーや国家は「ケア」によって活況を呈することもあると言う考え方に強い敵意を向けている。」(P156)
「精神を病んでいると形容される人々は「生きる上での問題」に苦しんでいる」という立脚点は、レインやバザーリアとも共通する部分である。だが、二人と違ってサースは「精神障害者への保護的アプローチをとる既存の「制度精神医学」」を全て否定する。それは、「「サースの反国家運動が自由意志主義的右派(libertarian right-wing)の立場から運営されている」と著者は指摘する。なるほど、治療共同体のようなコミュニティも、バザーリアのような地域精神医療に行政が関わることにも、サースは敵意を向けているのですね。そしてそれは新自由主義と軌を一にする「自由意志主義的右派(libertarian right-wing)」であり、サースは脱施設化だけでなく、「反国家運動」につながっているのか、と。
門外漢の人にとっては、オタクな議論で恐縮である。でも、この部分は、反精神医学のことを語る際に、非常に重要な部分だと感じる。実は4年前に書いた拙稿の中で、サース(サズ)のことについては、こんな文章を書いたことがある。
「サズに代表される反精神医学の主張は、①精神病を「病気のカテゴリーから除外させること」と同一視されがちだ。それは、第二次世界大戦後に隆盛を極めつつあった、脳や神経など生物学的な不調が原因となって精神疾患という結果が生じる、という生物学的精神医学に「反する」言説である。この部分については、その後の脳神経科学研究の深化のなかで、生物学的な変調や、その変調に(部分的にでも)「効果」があるという薬剤の開発などが進んだ。サズの指摘から40年以上経った今では、「病気のカテゴリーから除外させること」どころか、2011年に厚生労働省は脳卒中、急性心筋梗塞、糖尿病の4大疾病に、精神疾患を加えて「5大疾病」と命名するほど、「病気のカテゴリー」として定着している。この点では、確かに反精神医学は過去の議論となったのかもしれない。
だが、サズの主張で見落としてはいけないもう一つのポイントがある。それが、②「精神病と呼ばれている現象を新しく単純に見直し」「人の如何に生きるべきかの問題をめぐる葛藤の表現とみなされること」と捉え直している点である。かつて精神病者は「悪魔や魔女のせいにされた」歴史があった。その後、デカルト以来の西洋近代科学の隆盛の中で、「脱魔術化」=合理化への枠組み転換(パラダイムシフト)が起こる。そして、科学的、つまりは「非道徳的、非人格的」な「事柄」としての「病気」にのみ目が向けられるようになり、「人間のニード、熱望、および価値の葛藤に目を向け」なくなった。だが、薬で急性症状が部分的にであれ消失したとしても、「人の如何に生きるべきかの問題をめぐる葛藤」までは消し去ることは出来ない。その部分で、「科学」的なアプローチにも「無能力」な部分がある、ということに「無自覚」であり「無反省」である精神医療従事者に対して、痛烈な批判を浴びせたのも、サズの主張の根幹の一つである。
そして、①の意味での反精神医学は確かに過去の遺物になったかもしれないが、サズが提起した②のバトンは、精神医療のそれまで「常識」を変える力をもって、確実に次世代に受け継がれている。」(竹端寛「精神医療のパラダイムシフト」『精神病院時代の終焉 当事者主体の支援に向かって』晃洋書房、所収)
今回、レインの評伝を読んでいて思うのは、レインもバザーリアも、サースの指摘する②「精神病と呼ばれている現象を新しく単純に見直し」「人の如何に生きるべきかの問題をめぐる葛藤の表現とみなされること」に同意している。そして、その主張が一緒であり、それは生物学的精神医学の主流化に反するから、と「反精神医学」としてひとくくりにされた。ただ、サースと、レインやバザーリアでは①精神病を「病気のカテゴリーから除外させること」、という部分では意見を異にしている。レインは治療共同体で、バザーリアは地域精神医療において、「病気」の治療や支援をしてきたが、サースは病気ではないと捉えるがゆえに、「援助を要する人々に対応する際にコミュニティーや国家は「ケア」によって活況を呈することもあると言う考え方に強い敵意を向けている」とする。ここは随分大きな違いである。
では、なぜレインは(そしてバザーリアも)、反精神医学とラベルを貼られたのか。その部分について、評伝の以下の部分に手がかりがある。
「精神医学の知見に科学的価値があるにしても、それらの知見には根本的な瑕疵がある。つまり、それらの所見は、患者の人生全般の文脈の外側、とりわけ、精神科医-患者関係と言う文脈の外側で患者を研究した結果得られたものである。レインが続けて論じているように、あらゆる精神医学的記述は、事実についての陳述ではなく、ひとつの解釈なのだ。そして精神医学の教科書で目にする解釈は、理論的立場のカテゴリーによって、そしてその言語によって、あらかじめ決定されているのである。」(『R.D.レインと反精神医学の道』p32)
自然科学の一つになりたい、と希求している生物学的精神医学にとって、「あらゆる精神医学的記述は、事実についての陳述ではなく、ひとつの解釈なのだ」という指摘は、かなり本質的な批判である。そして、これはバザーリアが説いてきたこととも軌を一にする。
「私は精神病の概念を批判しますが、狂気を否定しません。狂気とは人間であることの条件だからです。問題は、この狂気にどう立ち向かうのか、この人間ならではの現象に対して、私たち精神科医がどのような態度を取るべきなのか、そしてこの欲求にどう答えることができるのかと言うことです。」「統合失調症と言う病名をつける事は、患者から距離を取るために、つまり統合失調症の患者に対して権力を持つために、単に医師にとって都合の良い烙印を押すことなのです。」(『バザーリア講演録・自由こそ治療だ』岩波書店、p191)
バザーリアもレインも、狂気の状態を否定してはいない。ただ、そのときに、精神科医が「狂気にどのように立ち向かうのか」「どのような態度を取るべきなのか」を問い直している。そして、「患者から距離を取るために、つまり統合失調症の患者に対して権力を持つために、単に医師にとって都合の良い烙印を押すこと」自体が、「理論的立場のカテゴリー」に基づく解釈の押しつけである、と批判しているのである。
「精神医学の教科書にある症例は、患者と精神科医の間のコミニケーションの破綻(ブレイクダウン)例なのである。破綻の起こる道筋は極めて明瞭である。つまり、互いのアイデンティティーを相互に認識しない時に起こるのである。」(『R.D.レインと反精神医学の道』p33)
ここで重要なのは、「症例」として示されるものが、「患者と精神科医の間のコミニケーションの破綻(ブレイクダウン)例」だと喝破している部分である。「単に医師にとって都合の良い烙印を押す」ことは、「互いのアイデンティティーを相互に認識しない」ことであり、それは単に患者が破綻(ブレイクダウン)しているのではなく、患者と精神科医の間の関係性やコミュニケーションが破綻(ブレイクダウン)しているのである。患者から距離を取って、「この狂気にどう立ち向かうのか、この人間ならではの現象に対して、私たち精神科医がどのような態度を取るべきなのか、そしてこの欲求にどう答えることができるのか」を考えずに、「客観的に観察」することに終始するならば、患者と精神科医の間の関係性やコミュニケーションの破綻(ブレイクダウン)が広がるばかりだ、という告発である。
これは誰が病気で誰が病気ではないか、という命名や価値判断基準と権力を持つ医者の根幹を揺るがしかねない指摘である。医師は科学的価値の錦の御旗の下で、自らの言説を正当化し、それに反する患者の訴えを一切無効化する権限を持っていた。だが、「あらゆる精神医学的記述は、事実についての陳述ではなく、ひとつの解釈なのだ」と言われてしまうと、その絶対的優位は揺らぐ。「統合失調症の患者に対して権力を持つために、単に医師にとって都合の良い烙印を押すこと」という隠蔽化された、無意識下に行われている社会構造を、白日の下にさらされると、その解釈の正統性が問い直される。これは、精神科医にとって土台を揺らがされるような、きつい批判である。であるが故に、レインやバザーリアは、サースのように精神病を「病気のカテゴリーから除外させること」を主張していなかったにも関わらず、反精神医学とラベリングされた。
さらに言えば、レインとバザーリアが主流派精神医学だけでなく、一般人の逆鱗に触れるような発言をしている。それは、狂気を問い直すプロセスの中で、「正常」をも二人は問い直し始めたからである。
「人間の多くの行動は経験を消去しようとする一方ないし双方の試みとみなすことができる。・・・大人になると、私たちは幼少期の大半を忘れてしまう。その内容だけではなく、その風味も忘れてしまう。私たちは世間を知っているが、内的世界の存在についてはほとんど知るところがない。・・・こうした事態は、私たちの経験がほとんど信じがたいほどに荒廃していることを示している。そこには成熟、愛、喜び、平和をめぐって、空疎なおしゃべりが存在している。・・・私たちが正常と呼ぶものは、抑圧、否認、分割、投影、取り入れ、その他様々な経験を破壊する作業の産物である。それは存在という構造から根本的に疎外されている。・・・眠っている、無意識である、気が狂っているなどの疎外の状態は、正常な人間の状態である。」(レイン『経験の政治学』みすず書房、p20-23、引用は前掲書p116による)
私たちが大人になるということは、「世間を知っているが、内的世界の存在についてはほとんど知るところがない」とレインは言う。それは「抑圧、否認、分割、投影、取り入れ、その他様々な経験を破壊する作業の産物」としての「私たちが正常と呼ぶもの」=「世間」を獲得するがゆえである。そして、そんな正常な大人は、「存在という構造から根本的に疎外されている」。その一方、一見すると正常とは見なされない、「眠っている、無意識である、気が狂っているなどの疎外の状態は、正常な人間の状態である」と指摘する。
そして、正常と呼ぶもののなかに、「経験を破壊する作業の産物」としての「疎外」が詰まっている、というのは、バザーリアの以下の指摘とも通底する。
「私の考えでは、医師や精神科医が実際に病人に施す治療は、疎外と言う意味を持たざるをえません。医療の唯一の目的が、元は労働者として、次に病人と言う商品として、生産の歯車の中に病人を復帰させることである限り、そうなるのです。このような治療は、人が自己主体的に自己表現するのは明らかに妨げています。こうして医師と病人との関係性は支配関係や権力関係になるのであり、この矛盾から抜け出すのは困難です。」(『バザーリア講演録』p133-134)
精神医療における標準化された治療が、「生産の歯車の中に病人を復帰させること」であるかぎり、「存在という構造から根本的に疎外されている」のである。職場の長時間労働やハラスメント環境の中で、ストレスを感じ、うつや自殺衝動を持つようになった人を、「治療」した上で、「生産の歯車の中に病人を復帰させること」。それは、労働環境の「抑圧、否認、分割、投影、取り入れ、その他様々な経験を破壊する作業の産物」を糾弾したり、改善することなく、「生産の歯車」そのものを温存させておくことである。「私たちの経験がほとんど信じがたいほどに荒廃している」そのような労働環境をそのまま放置して、疎外される環境である「生産の歯車の中に病人を復帰させること」を目指すなら、それは本当に治療と言えるだろうか。これが、レインとバザーリアに重なる問いかけなのである。
「レインは精神病を単なる病気とみなす必要はないと考えた。彼は、精神医学を疎外された「正常性」の科学、つまり私たちの疎外された世界を代表するものとみなした。それゆえ、精神医学は非人間的理論であり、「非人間的理論であるならば、不可避的に非人間的結果へ至ることになるだろう」」(『R.D.レインと反精神医学の道』p115)
レインは「精神医学を疎外された「正常性」の科学、つまり私たちの疎外された世界を代表するものとみなした」。これが、精神医学の王道からレインやバザーリアが攻撃され、「反精神医学」のラベルを貼られた根本的理由である。「患者さんを治したい」という「善意」に、「私たちの疎外された世界を代表するもの」とラベルが貼られ、治療が「生産の歯車の中に病人を復帰させること」であり「非人間的結果へ至ることになるだろう」と喝破されてしまうと、「正常性」の科学の正統性が揺らぐ。だからこそ、臭いものに蓋をする、ではないが、レインもバザーリアも、主流派の精神医療から攻撃され、忘れ去れたのである。
今回この評伝を一気読みして、改めてレインとバザーリアの同時代性と仕事の共通性を感じた。もちろん著者は、両者の違いもしっかり論じている。そして、巻末の解題では、その後の批判的精神医学の展開もしっかり論じている。この本は、沢山の刺激を与えてくれるし、翻訳も読みやすいし、「買い」の一冊である。
*最後に宣伝。バザーリアの事については拙著『「当たり前」をひっくり返す』(現代書館)でじっくり論じているので、よろしければご一読くださいませ。