『脱学校の社会』(東京創元社)はイヴァン・イリイチの主著であり、中身を読んだことはなくとも、タイトルだけは知っている人も多いと思う。僕自身は10年以上前に一度読もうとしたのだが、何を書いてるのかさっぱりわからなくて、途中で読むのを放棄した記憶が残っている。今回、『コンヴィヴィアティーのための道具』や『シャドーワーク』といった他のイリイチの著作を読んでから、改めてこの『脱学校の社会』を読んでみると、やっとイリイチが言いたかったことがスッと理解できた。イリイチは、教育そのものを否定しているのではない。学校による教育の制度化と硬直化を否定しているのである。
「一たび学校を必要とするようになると、われわれはすべての活動において他の専門化された制度の世話になることを求めるようになる。一たび独学ではだめだということになると、すべての専門家ではない人の活動が大丈夫かと疑われるようになる。学校においてわれわれは、価値のある学習は学校に出席した結果得られるものであり、学習の価値は教えられる量が増えるにつれて増加し、その価値は出席や証明書によって測定され、文章化され得ると教えられる。」(p80)
学校を必要とする=専門化された制度の世話になることによって、私たちは制度以外のやり方で学ぶこと=独学を否定することになる。つまり、学校化(Schooling)とは、「価値のある学習は学校に出席した結果得られるものである」という信念体系の強化である。ほんまもんの学びは本来、学校以外の独学においても可能なはずである。だが、学校で学ぶことのみが学習であると規定し、その学習は出席や証明書によって測定され、文章化することが可能だと言う信念体系も受け入れると、その数値化序列化された評価基準によって、人間自身の数値化や序列化が可能であると言う信念体系も強化されていく。そしてこれが、人々の制度化というか、人々の制度への飼い馴らしをも強化していく。
僕自身が以前イリイチを読んだのは、大学教員になってからだと思うのだが、その時は、内容がわからないと言うよりも、彼が告発していることを受け入れたくないと言う心的抵抗があって、彼の著作を理解できなかったのかもしれない。彼が言ったことを受け入れると、制度化された教育機関の最たるもの(の一つ)である大学を問い直し・否定することに繋がりかねず、その大学で働いている僕自身をも否定することになるのではないかと恐れ、この本はわからないと放り投げたのかもしれない。臭い物には蓋、ではないが、パンドラの箱を開けようとするイギリスの著作に対する拒否反応であったと考えると、非常にわかりやすい。
今回、同書を改めて読んでみて思うのは、彼は他者に強制される学びは否定しているが、自発的でおもろい学びは肯定し、むしろそれを称揚するためにこの本を書いているのである。イリイチの学習観が詰まった部分をみてみよう。
「本当は、人の成長は測定のできる実態ではない。それは鍛錬された自己主張の成長であり、どのような尺度やカリキュラムをもってしても図ることができないし、他人の成績と比較することもできないものである。このような学習においては、想像力に富む努力においてのみ他人と競い、また、人の歩き方を真似るのではなく、人の歩んだ道を辿ることができるのである。私が尊重する学習は、測ることのできない再創造なのである。」(p82)
教育に携わる仕事を15年以上しているが、「人の成長は測定のできる実態ではない」ということに、心から同意する。学びという内的成長=鍛錬された自己主張の成長を、外的な標準化されたスコアとして算出・評価するのは、あくまでも疑似的・外形的なものであり、本質的なものでは無いのだ。にもかかわらず、私たちは外形的スコアに拘束されてしまう。そのスコアこそ自分自身の本質なのだと誤解する。
1番わかりやすいのは偏差値であり、偏差値化された学校ランキングであり、偏差値信仰と言う命名が物語るように、それは1つの数字にしか過ぎないものを、最重要視する信念体系なのである。そして、僕自身もその偏差値信仰に、塾で受験勉強し始めた中学1年生のころから15年近く、どっぷりつかっていた。だからこそ、イリイチの本を一読した時、自分自身の信念体系が根底から揺さぶられているようで、理解したくなかった。他人の成績と比較し、人の歩き方を真似、偏差値の高い学校の証明書を求めるために努力していた、その己の努力は無駄だったのか、と。
だが僕自身が、この10年の間に、偏差値信仰を少しずつ相対化して考えることが出来るようになった。そんな中年真っ盛りで改めて振り返ると、僕自身が学んできたプロセスは、まさに鍛錬された自己主張の成長であり、想像力に富む努力を他人と競ってきたプロセスであり、人の歩んだ道をたどる旅であったと理解することができる。そして偏差値にこだわっていたら、大学卒業後には過去を振り返ることしかできなくなるが、偏差値信仰を超えて学び続けると、私自身の大人になってからの学びは、まさに測ることのできない再創造の旅であると言うこともできると思う。そして特筆すべき事は、制度化された学びに比べて、再創造の学びははるかにおもろい。止められない。気がつけば誰に言われなくても学び続けている。この自発性こそが、制度化された学びに欠落しているものであり、イリイチが重要視したことである。それをイリイチはコンヴィヴィアルと言う言葉を使って説明している。
イリイチは「制度スペクトル」という章で、その右端に「操作的制度」を置き、左端に「相互親和的(convivial)制度」を置いた上で、次のように述べる。
「スペクトルの右端の制度に共通な特徴は、強制的参加にせよ、サービスの選択にせよ、強圧的な性格を持っていることである。スペクトルの左端には、利用者が自発的に使用することが特徴となる制度、すなわち相互親和的制度がある。」(p107)
どの学校に入るか。これは自発的に決めているように思える。でも実際のところ、「これぐらいの偏差値ならここにしておけ」と言う形で、親や教師、予備校のデータによって強圧的に、方向付けがされてしまう。あくまでも試験の点数に過ぎない外形的な尺度で、大学の志望校も振り分けられている。
でも、僕が現任者研修などの「大人の学びの場」で出会うのは、自発的に学ぼうとする人々の集まりである。そういう人々には、コンヴィヴィアリティが存在する。それはどういうものか、をイリイチの別の本から定義づけしてみる。
「私は自立共生(convivial)とは、人間的な相互依存のうちに実現された個的自由であり、またそのようなものとして固有の倫理的価値をなすものであると考える」(イリイチ『コンヴィヴィアリティのための道具』ちくま学芸文庫、p39)
学校化された学習の対極にあるのは、人間的な相互依存のうちに実現された個的自由に基づく学びであり、他者比較や数値化・序列化を求めない、学びそのものが固有の倫理的価値をなす行為である。そして、それが制度化された学校では決定的に欠けているのではないか、というイリイチの告発である。
それは確かにその通りである。だが、僕は学校の中であれ・外であれ、自分自身の教育活動としては、自立共生的な学びの場作りを心がけてきた。大学のゼミの卒論指導でも、なるべく学生たちが自分の興味あるテーマで、自発的に学び、その中で問いを持ち、それを解決するためにフィールドワークを行ったり文献を読んだりインタビューしたりするためのコーディネーション役割や、産婆術役割として機能してきた。あるいは『無理しない地域づくりの学校』のような大人の学びの場でも、自発的に作られたマイプランへ、こんな視点があるかも、こんな人と繋がってみたらいいかも、とアドバイスするくらいしかしていない。そして、ゼミでも大人の学びの場でも、安心して自分の本音を話せる場作りを心がけてきた。
学習の制度化を自覚的に相対化し、人間的な相互依存のうちに実現された個的自由を取り戻すための、学びの協同体づくりを心がけてきた。これは、一つの私塾的な試みであり、コロナ危機で盛んになりつつある「オンラインサロン」のようなものかもしれない。
イリイチは自立共生的な学びを促進する四要因を以下のように述べている。(p146)
1 教育的事物等のための参考業務(Reference Service to Educational Objects – An open directory of educational resources and their availability to learners.)
2 技能交換(Skills Exchange – A database of people willing to list their skills and the basis on which they would be prepared to share or swap them with others.)
3 仲間選び(Peer-Matching – A network helping people to communicate their learning activities and aims in order to find similar learners who may wish to collaborate.)
4 広い意味での教育者のための参考業務(Directory of Professional Educators – A list of professionals, paraprofessionals and free-lancers detailing their qualifications, services and the terms on which these are made available.)
この本が書かれたのは半世紀前の1970年。その当時はインターネットもウェブサイトもなかったので、本をネット検索できないし、お互いの得意なことをシェアする方法も限定されていたし、同じ思いで学んでいる人とつながる事も出来なかったし、教えてくれる師匠や先達を見つけるのも至難の業だった。でも、これらはみな、ネットで出来うることである。
すると学校でしかできない事を考えると、1から4を学習者がネットを使いこなして実現するために、自分の頭で考えること、主体的に判断すること、他者と協力し合いながら物事を進めること、・・・これらを促す役割が中心であり、究極のところそれしかない。そのような自立共生的な(コンヴィヴィアルな)学びの支援が出来ない学校なら、必要ない、ということになってしまう。そして、小中学校で上記のことを教えていたら、大学の役割は大きく変わりうるだろうと思う。
とはいえ、50年たっても現実はなかなか変化していない。小学校で上記を教えるはずだった「総合学習」の時間は、多くの学校では不活発なままだとも聴く。それは、子どもが学びたがらないのではなく、教師の側が教科教育(国算理社体音)にこだわり、それを有機的に結びつける総合学習に意義や価値を見いだしていないから、とも、小学校現場の先生から伺ったこともある。すると、教える側の制度化への縛りを解きほぐす必要は、50年前と変わらず今もあると思うし、学校の教員こそ、まずは率先して自律的で主体的で協同的な学習を面白がっているか、が問われていると思う。
僕は少なくとも、偏差値信仰が自分の中で成仏され、薄まるにつれ、学びがどんどん面白くなっている。そして、イリイチの他の本とも、今更ながら、やっと出会えそうである。