あまり大きな声では言えないが、これまで地理学の本を読んだことはなかった。本書も、著者が職場の斜め前の研究室におられる同僚で、誠実なお人柄で、学生の卒論の指導レベルがめちゃくちゃ高い杉山先生の本でなかったら、もしかしたら手に取らなかったかもしれない。でも、手にしてすごく良かった。自分が想定していなかったアプローチから、自分が考えてきた領域を捉え直す論考だったからだ。
「コミュニティ論の意義は、一定の地理的範囲のコミュニティに根ざす諸主体が、各々の利害の垣根を可能な限り越えていくための努力が論じられることにある。あわせてそれは、ユートピアを語っていると(あるいは語りすぎていると)、「場」の幻影が生み出される隙間を与えかねないとの警鐘にもつながる。ネガティブに考えすぎるとの批判を受けてしまうかもしれないが、「場」の幻影は、過度な没場所性、新自由主義的発想への進展に向けた協奏曲ともなりかねない。」(杉山武志『次世代につなぐコミュニティ論の精神と地理学』学術研究出版、p21-22)
地域福祉に関わりながら、僕自身はこれまで、場所や場、空間の違いさえ、きっちり考えたことはなかった。ただ、厚労省が言う地域包括ケアシステムは、標準化規格化されたモデルが当てはまらず、その地域のローカルな文脈に当てはめて、カスタマイズする必要があることは、山梨時代の実践からも感じていたし、そのことはチーム山梨でまとめた書籍に至る議論の中でも、繰り返し確認し続けていた。しかし、このときのローカルな文脈が「一定の地理的範囲のコミュニティ」である、と明確に自覚化していなかった。そして、様々なワークショップや話し合いなどの「場」を作りながら、そのようなローカルな文脈に迫ろうとしていたが、そこに「「場」の幻影」があり、それが「過度な没場所性、新自由主義的発想への進展に向けた協奏曲ともなりかねない」とは、思いも寄らなかった。でも、言われてみたら、確かに、と思うのだ。それは、山崎亮氏の<コミュニティデザイン>論についての言及に現れている。
美の幻影
僕自身も山崎亮氏の論考を10年前に初めて読んだ時は感動し、それを評価するブログも書いていた。でも、その後何冊か読んだり、実際に彼の講演を聴く中で、何かモヤモヤするな、と思いながら、どう違うのかを言語化してよいのか、わからないままだった。でも、杉山先生の本の中に、そうそう!と思う分析を見つけた。
「コミュニティ“そのもの”のことを組織や集団と捉えて「デザイン」していくような発想には、素朴な疑問を覚えてしまう。とりわけ留意しておかねばならないのは、<コミュニティデザイン>論が「美」を強調することによるワークショップなどの一時的な「場」を「コミュニティ」と捉えてしまっていることにあろう。地理なき組織化というべき、コミュニティ概念の危機といえる状況を解決するためには、コミュニティとアソシエーションの関係をいま一度、振り返ることが求められる。」(p29)
山崎氏の本や講演で圧倒されたのは、僕なんかには到底真似の出来ないワークショップの美しさ、かっこ良いデザインによるまとめ、である。だが、その美しさになんだかモヤモヤしていたのだが、「<コミュニティデザイン>論が「美」を強調することによるワークショップなどの一時的な「場」を「コミュニティ」と捉えてしまっている」という指摘を読んで、まさに「そうそう!」と思ったのだ。一回、ないし数回のワークショップで美しいビジョンや計画書ができあがっても、それは「一時的な「場」」の成果である。だがそれで継続的にその地域がエンパワメントされたか、という話は別である。杉山先生はその事態に関して、「地理なき組織化というべき、コミュニティ概念の危機」への危惧を感じているのである。
「問題は、「まちづくり」ではないとされる<コミュニティデザイン>論をきっかけに、都市計画学ベースの「まちづくり」の発想が強化されてしまう逆説的な原因への探求があまりなされていないことにある。」(p26)
美しさは、それが集合的な何かを美しく見せる事である場合は特に、ある種の管理や統制、支配にも、繋がる可能性を秘めている。住民の声に基づいたワークショップなどでコミュニティの有り様を整理していく<コミュニティデザイン>論も、美しく仕上がったものは、「都市計画学ベースの「まちづくり」の発想」を意図せざる形で強化することに繋がるのではないか。この指摘は、深くて、重い。それは、最初に引用した杉山先生の指摘に立ち戻ると、さらにクリアにみえてくる。
「コミュニティ論の意義は、一定の地理的範囲のコミュニティに根ざす諸主体が、各々の利害の垣根を可能な限り越えていくための努力が論じられることにある。」
ある「一定の地理的範囲のコミュニティ」において、実際に何か新しいことを始めたり、何かを変えようとすると、時として恐ろしいほどの反発に遭う。それは、町内会や自治会、PTAや民生委員といった地縁組織の改革がなかなかしにくい、ということでも、ご理解頂けると思う。そして、そのような反発や抵抗といった「各々の利害の垣根を可能な限り越えていくための努力」がないと、いくら一時的な「場」で美しい成果を作り上げても、それが「ある特定のコミュニティ」という「場所」全体を変える成果には結びつかない。でも、そのような利害調整は、はっきり言って面倒だし、出来れば主体的に関わりたくない。すると、面倒な利害関係調整よりは、なんとなく美しく解決してくれそうな「「場」の幻影」にすがりたくなるし、そのような「幻影」を売り物に地域に入り込む外部者の中には、「過度な没場所性」や「新自由主義的発想」と結びついた業者が入る混む可能性だってあるのではないか。これは、福祉系のコンサルが自治体に食い込む様子を山梨で散々見てきて、時にはアンケート調査の集計と自治体名だけ違うけどそれ以外は(表紙まで含めて)全く同じパッケージを一つのコンサルが複数自治体で作っている「幻影」と直面していた僕には、深く頷ける話であった。
外発性の限界
そして「過度な没場所性」や「新自由主義的発想」と結びつく危険性は、「創造的農村」の代表事例としてマスコミで何度も取り上げている、徳島県神山町にも当てはまる、と杉山先生は指摘する。
「神山町には整備された情報インフラやアメニティに魅力を感じた創造人材が移り住むようになってきているとされるが、ある一定の時間が経過したのちに別の都市や農村へ移動しない保証はない。東京の企業が神山町にサテライトオフィスを構えても、東京の本社とのテレビ会議システムを通じて首都圏の市場に目が向いていては—あるいは首都圏から管理されていては—、内発的発展論で否定されてきた「外来型」の企業誘致とそれほどの差を感じない。創造農村論における内発的発展論の彷徨いが浮き彫りになっている。」(p168-169)
コロナ危機において、在宅ワークが推進され、都心の人口が減ったり、リモートワークが全国的に進みつつある、という記事も繰り返し流されている。だが、ずっと以前から行われてきた、高速道路沿いの「工業団地」に代表されるような「外来型」の企業誘致って、景気の浮き沈みで撤退の憂き目にあっている自治体も少なくなく、そもそも工業団地的発想が頭打ちである、ということは、全国的な課題でもある。そして、高速道路や工業団地の整備と同じように、「情報インフラやアメニティ」を整備したところで、「ある一定の時間が経過したのちに別の都市や農村へ移動しない保証はない」というのは、まさにその通りである。杉山先生の論考が深いのは、そこで論を終わらず、「東京の本社とのテレビ会議システムを通じて首都圏の市場に目が向いていては—あるいは首都圏から管理されていては」、結局以前の企業誘致と同じではないか、と本質を突く。つまり、製造業だろうがIT産業だろうが、なりわいが外からもたらされ、それによって一時的に反映しても、そのなりわいが首都圏や都会から管理され、支配されている限り、自生的で持続的なコミュニティ形成とは言いがたいのではないか、という指摘である。まさにその通りなので、これも蒙を啓くような指摘である。
ではどうすればよいのか。杉山先生はその処方箋として、集団的学習と、地域スケールの実態にあった関係性の再構築、の二つとして示してくれている。
学びあいからの活性化
集団的学習の手がかりとして、僕は初めて知ったのだが、「イノベーションを生成する風土・環境(milieu)」である「イノベーティブ・ミリュー論」(p91)を杉山先生は取り上げる。これは「域内のローカル・ミリューの存在によって、アクター間のつながりを基礎として集団的学習が促進され、イノベーティブな意志決定が起こりうる」(p91)という特徴があり、以下のようなポイントがあるという。
「ミリューには、1)変化が激しく不確実性が高い状況下において意志決定を可能にする役割、2)ミリューの機能が集団的学習を促進する役割がある。すなわち、ミリューとは人々の認知フレームを提供するような地理的環境であり、地域への帰属意識、共通の価値観、地域的な制度や慣行という要素によって支えられている。」(p92)
「人々の認知フレームを提供するような地理的環境」という切り口や視点自体が僕にとってはすごく新鮮だったが、ふと浮かんだのが、前任校の時代に出会って、今も愛飲している甲州ワインのことである。甲州市勝沼地区やその近接地域では、醸造家の二代目三代目同士の「集団的学習」が促進される中で、甘ったるい格安ワインから、本格的な甲州ワインブランドが確立されていった。それは、甲州ワインのブランドの質向上に向けての「アクター間のつながりを基礎として集団的学習が促進され、イノベーティブな意志決定が起こりうる」環境が、あの地域で醸成されていったということである。そして、杉山先生は次のように論を進める。
「重要な論点は、製造業を中心とした集団的学習論から、ミリューとしての都市を背景にアソシエーションといった社会的文化的な集団、産業分野の多様性をもつ集団へと、考察対象が移行してきている点にある。」(p94)
これも甲州ワインを念頭においたら、よくわかる。最初は海外産ワインに負けない味と品質を目指した「製造業を中心とした集団的学習」の段階だったのだが、今ではワイナリー巡り、ワインツーリズムなどのブランディングなど、ワインを通じた地域コミュニティの形成、つまり「ミリューとしての都市を背景にアソシエーションといった社会的文化的な集団、産業分野の多様性をもつ」段階に甲州エリアは変わってきている。まさにそれは「イノベーティブ・ミリュー論」が発展しているプロセスだと、この本を読んでやっと合点がいった。
この本では4章で鎌倉市での「地域コミュニティとしてのつながりの回復」が、5章では大阪府内での商工会議所における経営指導が論じられているが、一見バラバラに見えるこれらの論点は、徹底的な学び合いという集団的学習の中から、なりわいの回復と共に、その地域の中でのアソシエーションの活性化と地域コミュニティの賦活化をもたらしている、という共通性がある。そして、これこそが「一定の地理的範囲のコミュニティに根ざす諸主体が、各々の利害の垣根を可能な限り越えていくための努力」の成果なのだと、改めて腑に落ちた。
場所と空間
ここで最後に、場所と空間の違いを整理しておきたい。本書では人文地理学者のトゥアンの整理に基づき、「場所が持っている安全性と安定性」「空間が持っている開放性、自由、脅威」(p236)を対置させている。コロナ危機において、僕は姫路という「場所」からあまり外に出ずに、その中で安全性と安定性を担保する事が出来たが、一方でしょっちゅうサイバー「空間」であるZoomで日本中、そして時には海外の人とも議論をし続ける中で、自分にとっての開放性や自由も担保してきた。その際、杉山先生はこのように指摘する。
「感情(=場所/ローカル)と理性(=空間/グローバル)という二元論をこえた「相互に構成し合っている」世界観への理解が求められている」(p229)
場所に過度にこだわり、空間への敬意を怠ると、排他的共同体になりやすい。一方、空間に過度にこだわり、場所への敬意を怠ると、全国どこでも同じような郊外のショッピングモールやファミレス、コンビニ、量販店ばかりの空間が構成され、その土地の魅力が去勢されてしまう。だからこそ、その双方への目配せが必要不可欠なのだ。
「ネオ内発的発展論の領域の見方は、地理学的スケールを持つ。すなわち、内発的発展が指向した農村地域内で完結する単位だけでなく、ローカルとグローバルを媒介する単位として領域が扱われている。したがって領域的アプローチとは、農村の内部から動かす内発的なアプローチだけではなく、外部から地域に働く力と協同できる制度の構築に特徴をもち、地域内外の多様な主体の参加に基づいて農村地域の発展を目指す方法といえる」(p183)
閉塞的な同質集団だけのローカル(=場所)でもなく、顔を持った個人ではなく消費者や市民という単位でまとめられるグローバル(=空間)でもなく、その媒介としての領域。それは川と海の境界の、淡水と海水の混じり合った汽水域である。この汽水域としての領域は、「内部から動かす内発的なアプローチだけではなく、外部から地域に働く力と協同できる」両義性を持ち、であるがゆえに、「地域内外の多様な主体の参加に基づいて農村地域の発展を目指す」可能性を秘めている。
例えば7章で書かれた丹波篠山市の東部地域の事例で言うと、旧小学校区ごとの場所である6地区それぞれでは、過疎化の進行の中で、その地区の自治を単独で考えることに限界を迎えかけていた。そのときに、6地区をつなぐ学びあいの実践をする中で、集合的学習から、やがて地区を越えたつながり(アソシエーション)が生まれ、東部6地区間の連携が密になってきているという(p218)。これも、6地区という「領域」において、「内部から動かす内発的なアプローチ」の枯渇や限界を超え、「外部から地域に働く力と協同」する中で、「地理学的スケール」にもかなった形で、「二元論をこえた「相互に構成し合っている」世界観」を構成しようとしている実例とも言える。
地域福祉が学べること(インプリケーション)
これまで、杉山先生の論理展開を追いかけてきたが、そのプロセスの中で、地域福祉が学べる部分が沢山あるな、と感じている。
自戒を込めて書くのだが、僕自身が、場と場所、空間の差違に無自覚なまま、誤用してきた例が沢山ある。「地域づくり」「福祉の街づくり」の目的で、ワークショップや議論の場など、色々な場を作ってきたが、それが「幻想」とまでいかなくとも、その場所の、コミュニティの人々にちゃんと腑に落ち、そこから物語変容に結びついたか、と言われると、甚だ心許ない。あるいは、アドバイザーとして地域に関わる際、空間的に近接だからとか、行政圏域が一緒だから、と地理性の違いを理解せずにアプローチして、撃沈したこともある。国が言っているから、と外発的論理を持ってきても、それをローカルな内発的文脈に落とし込めなかったら、形だけの受け取りで、実質的に拒否されたこともある。
そのときに、この本と出会っていたら、「集合的学習」というアプローチが取れたのに、と悔やまれる(が、本書は2020年刊行なので、山梨時代には出会えなかった)。「変化が激しく不確実性が高い状況下において意志決定を可能」にし、「集団的学習を促進する」ミリューのようなものを、地域地域で作りあげていくことができたら、ずいぶん内発性が高まるのだと思う。そして、そのような内発性が高まった地域であれば、汽水域としての領域において、「外部から地域に働く力と協同できる制度の構築」も可能なのだと、今ならわかる。
そして、不案内な地理学の本なのに僕が面白く読み通せたのは、杉山先生の以下の語りが、本書の通奏低音として基盤に据えられているからではないか、と感じている。
「近隣地区との旧知のつながりも丹念に再発見し、汗をかく中でつながりを大切に育み直し、その地域スケールという基盤のうえに域外の諸主体との連携をともに発展させていくことが共発というものではなかろうか。」(p221)
これは地域福祉に携わる生活支援コーディネーターや社協職員、自治体関係者などにも全くもって当てはまる叡智ではないだろうか。美しい幻影にすがるのではなく、「土の香りのある」「泥臭い」(p30)世界観のなかで、まずは「近隣地区との旧知のつながりも丹念に再発見し、汗をかく中でつながりを大切に育み直」す。そんな中で、「一定の地理的範囲のコミュニティに根ざす諸主体が、各々の利害の垣根を可能な限り越えていくための努力」を重ねていく。そのプロセスにアクターとして関与し、外部者と内部者の入り交じる汽水域において、「地域スケールという基盤のうえに域外の諸主体との連携をともに発展させていく」なかで、おもろい何かが創発されていくのである。
僕自身が、この本を通じて、地理学的視点と出会うことで、今まで何が見えていなかったのか、何が分かっていなかったのか、を教わりつつある。そして、これから地域福祉に関わるときは、少しは地理学的な視点も持ちたいな、と思いを新たにしている。