ナウシカは「無防備」なのか?

4歳の子どもと夫婦で見ようと買った宮崎駿作品のDVDボックス。毎週末、新しい作品を開けている。こないだは魔女の宅急便のキキの萃点性についてブログに書いたけど、今回はナウシカのことで書く。実はナウシカも今回初めてみたのだが、すごく面白くて、論点が沢山あると感じた。福島原発の爆発後の世界と重ね合わせたり、あるいはコロナ危機でマスク生活が強いられることと重ねて論じる人がいるのもよく分かる。だが、僕が今回論じてみたいのは、「切り分け」の問題である。

風の谷を支配して、ナウシカの父を殺したのは、トルメキア帝国の辺境派遣軍司令官クシャナだった。彼女自身、王蟲に襲われて左手を失っており、それで腐海や王蟲を焼き殺してしまいたい、という執念を持っている設定である。彼女達の軍や戦車や爆撃機、銃などを活用して風の谷も支配し、他の人間も威嚇し、巨神兵まで使って、人間の支配を取り戻そうとする。

そして、クシャナの率いる軍の人質としてナウシカは爆撃機で護送されるが、途中で敵であるペジテのアスペルに襲撃され、爆撃機は炎上する。ナウシカや風の谷の人々は、爆撃機に格納されていた、召し上げられた風の谷の飛行機で脱出するが、その際、同じく逃げてきたクシャナもナウシカは助けた上で、飛行機は腐海に不時着する。だが、不時着したその場でクシャナはナウシカに銃を向け、自らの支配に従うように、ナウシカに命令する。その際、無防備なナウシカはクシャナにこう呼びかける。

「あなたは何をおびえているの?まるで迷子のキツネリスのように」

ここで、それまでやられっぱなしだったナウシカや風の谷の勢力は、反転し始める。

この映画でのナウシカは、こうした無防備ゆえに、状況を変えていく最大の力を持っている。怒り狂った王蟲の大群が風の谷に迫ってくる時、囮として使われた傷ついた一匹の子どもの王蟲をぶら下げたベジテの人々を説得するため、銃撃する相手に対して両手を広げてナウシカは突っ込んでいく。あまりにも無防備である。

だが、クシャナやベジテの人々が、銃で攻撃することにより身を護ろうとしていた時、なぜナウシカは無防備であり続けることができたのか。それは、ナウシカが王蟲や腐海といった「非人間」としっかり繋がっていたから、と言える。クシャナ達は人間+銃(人工物)という人間の支配するネットワークに依拠していたのに対して、ナウシカは人間を襲い危害を与える存在と見なされた王蟲や腐海を、単純なる「敵」と捉えず、むしろこれらの存在を「味方」につけることにより、打倒ではなく共生の道を探ろうとしていた。

クシャナに代表される大半の人間は、支配することができず、自らの生を覆い尽くそうとする自然の脅威に対して「迷子のキツネリスのように」「おびえて」いた。だが、ナウシカは違った。小さい頃から父親に隠れて小さい王蟲と遊んでいたり、大きくなってからも、腐海や王蟲の内在的論理をつかもうと相手の懐深くに入り込み、粘菌は綺麗な水で培養すると、人間の肺に危害を及ぼさない形で育つことまで知っている。また王蟲の怒りを静めることができれば、人間は襲わず、腐海に戻っていくことも、体感として理解している。

ナウシカは、粘菌や王蟲、腐海とつながりあい、理解し合い、関係性を深めていくことができたから、王蟲の大群による風の谷の殲滅を、命がけで食い止めることができたのである。銃も火も巨神兵も使うことなく、無防備な自分を差し出すことによって。

支配や思い込みを手放すこと。人間には支配できない自然や現象があることに立ち戻り、それらに敬意を払うこと。それらの存在の論理に従って動くこと。これは、ある程度の「大人」にとっては、簡単なことではない。特に「合理性」「社会性」「常識」が身に染みている大人にとっては。だからこそ、ポニョやトトロの存在も、小さな子どもにしか見えなかった。キキは、社会性を身につけるプロセスで、魔法を一度失いかけた。ナウシカは、大人の手前になってもそういう存在とコミュニケーションできる例外的存在である、ともいえる。

で、改めて考えるのは、「無防備」とはなにか、ということでもある。

大人が考える「無防備」とは、「防備」と対の概念である。大人は、銃や戦車、威嚇や植民地支配などを通じて、他者を自らに従わせることを通じて「防備」しようとしている。では、何をどのように「防備」しようとしているのか。それは、自分の命であり領土である。でも、それならナウシカ的なあり方でも「防備」することはできる。ということは、別の何かを「防備」できるかどうか、でナウシカは「無防備」と捉えられているのだ。

その別の何か、を、「思考の枠組み」と捉えてみたら、どうだろうか。人間は自然より優れている、敵は殲滅しなければならない、威嚇や暴力によって支配しないと自分が支配される、食うか食われるかの二者択一だ、すべての存在は人間による支配や管理が可能だ・・・。こういう「思考の枠組み」に囚われていて、それが常識であり、それ以外の可能性はないと思い込んでいると、ナウシカの有り様は実に「無防備」である。だが、そのような人間と非人間を切り分けた思考枠組みそのものが、人間の思い込みであり、限界である。実際に腐海や王蟲を生み出したのは、そのような切り分ける思考枠組みではなかったか。すると、実のところ「無防備」なのは、そのような切り分けで非人間も含めて支配しようとする人間の「思考枠組み」ではなかっただろうか。

クシャナは自分たち人間が主人公であり、銃や戦車、巨神兵などの非人間は支配可能な道具だと思っていた。一方ナウシカは、粘菌や王蟲、腐海は道具でもなければ支配すべき敵でもなく、自分と共にある世界の一員だった。クシャナに代表されるのが人間中心主義であるとするならば、ナウシカは人間と非人間の関係を断ち切らず、それを同一スペクトラムの連続体で捕らえる関係中心主義である、と言えるかも知れない。それは、これも以前のブログでも書いたのだが、縁起ネットワークのなかにいるのである。

ナウシカは、自らの「思考の枠組み」に囚われず、粘菌や王蟲、腐海の状況に合わせて、自らの言動を柔軟に変化させることができる。一方クシャナに代表される人間中心主義の人々は、銃で射撃することはあっても、自らの言動を柔軟に変化させることはできず、おびえている。人間中心主義とは、自らの思考の枠組みへの囚われや居着きのことであり、非人間的存在との柔軟なネットワーキングを拒否して、自らの殻に閉じこもる思考だ、とも言えるかもしれない。そして、粘菌や王蟲、腐海を切り分けずに、自らと繋がりのあるネットワーク=縁起的存在であり、自らの生と、縁起的存在の生の連続性を意識し、自らの命と同じように掛け替えのないものとして尊重するナウシカの生き方は、人間中心主義から見たら無防備だが、共生的生き方による防備、という面からみたら、最強の生き方なのかも、しれない。

人間社会とは○○のはずだ、という思い込みで防備するのではなく、そのような思考の枠組みを手放して、そこから自由になり、非人間の支配や管理よりも、非人間と人間との連続性を意識して関係性を深めていくことこそ、最大の防備なのかもしれない。宮崎アニメは、そういうメッセージをずっと通奏低音として、持ち続けているのかもしれない。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。