己の萃点性

2021年最初のブログである。今年もよろしくお願いいたします。

年始は、年末以来ずっと自分の中で考えてきた「萃点(すいてん)」に関する覚え書きから。きっかけは、僕のメンターをしてくださっている阪大の深尾葉子先生から教わって読んだ、中沢新一による南方熊楠論からだった。

「世界の真実のありようは『ロゴス的思量を越えている』。すなわち『不可思議』を本質とします。南方熊楠は那智の山中において、この『不可思議』の領域の内部構造と運動学を、レンマ的知性によって捉えることが可能ではないかと考えついた。ロゴスの近代的形態である科学は、世界の事物に因果関係ありとして、因と果の間に存在する射(モルフィズム)を数式であらわすことを科学の本質と考えていました。
しかし、熊楠の考えでは、そのような因果関係こそロゴスの仮構であり、世界の事物に因果関係などはなく、あるのは仏教の教える『縁起』なのです。因果ではなく縁起こそが、レンマの知性の得意とする領域であり、熊楠はこのことをもとにロゴスならざるレンマによるオルタナティブな学問を創造できる、と確信したのでした。」(中沢新一『熊楠の星の時間』講談社、p32−33)

この中沢新一の講演録は、彼の著作の中でも極めてわかりやすく読みやすいのだが、内容は実に深い。線形的な因果論で世界の有り様を充分に説明できないのは、複雑性科学を紐解くまでもなく、日常的な人々の関わりの悪循環において、しばしば感じることである。(それは以前ブログでも何度か書いたこともある。)

ダイアローグ実践を色々手がける中で感じるのは、何らかの悪循環を「因と果の間に存在する射(モルフィズム)を数式であらわすこと」で理解したり解決することは出来ない、という当たり前のことである。では、「世界の事物に因果関係などはなく、あるのは仏教の教える『縁起』なのです」というときの、縁起とは何か。中沢はこう解説する。

「『華厳経』に代表される古代型の学問としての仏教経典では、世界は縁起の作用によって相互連絡をおこなう巨大(無限)な全体性としてとらえられています。その全体性の中ではどんな細部の変化も縁起の作用によって即座に全体に連絡され、変化は全体に波及していきます。しかしその変化によって、『法界』の全体性にはなんの変化も移動もおこらないのです。そういう全体(無限)がさらに無限にある。」(p35)

「世界は縁起の作用によって相互連絡をおこなう巨大(無限)な全体性としてとらえられています」というのは、悪循環の構造を眺めていると、よく理解できる。誰かが悪い、と因果を同定することは出来ず、その悪循環構造に関わる関係者の「縁起」のなかで、循環が「悪く」固定されているのである。ということは、コミュニケーションパタンを変えることによって、「その全体性の中ではどんな細部の変化も縁起の作用によって即座に全体に連絡され、変化は全体に波及してい」くことになる。これもダイアローグ実践をしていると、実感することである。

そして、同じく深尾先生から教わって井筒俊彦の『コスモスとアンチ・コスモス』(岩波文庫)を読んでいたら、縁起に関する興味深い図が見つかった。(これは次のサイトで見ることが可能)。この図の解説に、以下のようなことが書いてある。

「Aという一つのものは、他の一切のものとの複雑な相互関連においてのみ、Aというものであり得る。ということは、Aの内的構造そのもののなかに、他の一切のものが、隠れた形で、残りなく含まれているということであり、またそれと同時に、反面、まさにその同じ全体的相互関連性の故に、AはAであって、BでもCでも、X、Yでもない、という差異性が成立するのです。
ただ一つのものの存在にも、全宇宙が参与する。存在世界は、このようにして、一瞬一瞬に新しく現成していく。」(p59)

Aというものは、他と独立して(=何の関係もなく)存在している訳でもなければ、Bと単純な因果関係にあるわけでもない。「Aの内的構造そのもののなかに、他の一切のものが、隠れた形で、残りなく含まれている」。これがまさしく縁起の作用そのもの、である。そして、そのような「全体的相互関連性の故に、AはAであって、BでもCでも、X、Yでもない、という差異性が成立する」。全体性・不可分性と差異性が縁起によって同時並行的に存在する。この井筒の説明するAとは南方熊楠の言う「萃点(すいてん)」と重なる。

南方は自らの描いたダイアグラムの最も交錯するポイント(イ)について、次のように述べている。

「図中(イ)のごときは、諸事理の萃点ゆえ、それをとると、いろいろの理を見いだすに易くしてはやい。」(南方熊楠『南方マンダラ』河出文庫、p297)

萃点とは合理非合理も合わせた縁起的な諸事理の交錯点である。この萃点を、先の井筒の縁起ネットワークの説明と重ね合わせると、何が言えるか。それはA,B,C・・・X,Y,・・・とつながる万物が、それぞれの萃点性をもって、他の別々のものと繋がっている、というイメージである。

すると、ここから僕の妄想(暴走)がはじまる。

つまり、僕も含めた、全ての生きとし生けるものには萃点性がある、というのが、南方=井筒縁起論からいえるのではないか、と。そのときに、僕は、自分自身の中にある萃点性にどこまで自覚的だっただろうか、と。

確かに、僕は様々な人や書籍に影響されて、タケバタヒロシとして構成されている。その意味では、かなり他者依存的である。とはいえ、僕も他者に影響を与える、相互関連性のネットワークの中にいる。であれば、僕がいくら金銭的な資産を持っているか、どれだけの情報処理能力があるか、どれだけ知識があるか、という、何らかの所有の多寡に関係なく、生まれながらにして、僕には僕固有の萃点性があるのではないか。

実はそのことは、もうじき4才になる娘を見ていて、強く感じる。彼女は、資産も知識も別にもっていない。でも、そんなこととは全く関係なく、ただ存在しているだけで、周りの人が笑顔になったり、引き寄せられるような萃点性をもっている。それは、彼女だけではなく、すべての赤ちゃんや幼児に共通する魅力である。

でも、徐々に「社会化」されていくと、その萃点性が失われていく。集団に従うことが基本となると、溌剌さが失われ、唯一無二の特徴はいつのまにか目立つが故にイジメの対象になり、出る杭にならぬように、足を引っ張れないように、世間を気にして、空気を読んで、同調圧力に従う。そんな中で、みごとに「大人」になることで、己の萃点性が去勢されていく。ぼく自身は、この40年間、そうやって己の萃点性を自己去勢したり、見ないふりをしてきた。必死に因果モデルの中に自らを押し込め、それなりに賢いフリをして、縁起論のような「非科学的」な発言は慎むようにしてきた。そしてそれは、普段接する大学生をみていても、同じような萃点性の弱さを感じる。

でも、自らの縁起性や萃点性を無視するより、それを大切な価値として慈しんだ方が、生きていてオモロイのではないか。いきいきするのではないか。昨年末から、そんなことを思い始めている。実際、オモロイ人生を生きている人は、肩書きや人種、年齢関係なく、己の萃点性を活かして、大切に育んでいる人のような気もする。

ここから、妄想に少しドライブをかけてみよう。

オープンダイアローグで言われている、他者の他者性を尊重する(respecting otherness)、ということは、己の唯一無二性の自覚でもある(これについては以前のブログでも触れた)。これを今までの議論に重ねるなら、縁起ネットワークの中に存在する他者の、自分にはうかがい知れない他者性をそのものとして尊重することは、そのネットワークの中に存在して、関係しているけど、他者とは明らかに違う己自身の独自性、唯一無二性を尊重することでもある。これは、己の萃点性の自覚であり、縁起ネットワークの中での己の関係性の自覚でもある。

自分自身の唯一無二性を大切にする、というと、わがままになることだ、と誤解する人がいるが、上記の説明を元にすると根本的に異なるとわかる。全宇宙と繋がっていながら、それと同時に唯一無二でもあるのが、華厳経のいう、南方=井筒の指摘する萃点ネットワークなのである。その中で、己の萃点性を自覚するとは、わがままになることとは逆の、自分のオリジナリティと、世界との相互連関性の、同時的な理解と覚悟なのである。

逆にヒトラーに代表される独裁者は、他者の他者性を尊重出来ないということにおいて、己の唯一無二性=萃点性にも無自覚で、それに抑圧的だったから、他者支配=他者依存的ではあったのでは、という仮説も浮かぶ。それは、そういう独裁者に自発的に隷従する人々と、己の萃点性を自覚していない、という意味では重なってしまう。

空気を読む、とか、同調圧力、とかは、世界との相互連関の中に個人を埋め込む作用はあった。だが、それと同時に、自分自身のオリジナリティや萃点性に蓋をし、去勢する圧力でもあった。これでは、本当の意味での他者の他者性を尊重出来ない。なぜなら、自分自身の唯一無二性を、そのものとして尊重する前提がないからである。

ということは、自分自身が持っている傾向とか特性とか、あるいは直観とか好みとか、そういう唯一無二性をそのものとして大切に慈しむことは、他者のそれを他者の他者性として尊重することにもつながる。そして、そういう形で自分と他者の関係性を変えていくことができれば、自分と世界をめぐる縁起ネットワークは少しずつ、だが確実に変わっていく。おもろい人生を生きたければ、この縁起ネットワークにおける己の萃点性と、世界との相互連関性を強く意識することが、「急がば回れ」ではないが、一番の近道なのだ。

僕自身は、社会化することは、競争社会の中で勝ち残ることだ、と長い間誤解してきた。これは、団塊ジュニア世代で、高度経済成長期を生き残った親=団塊世代からの洗脳もあっただろうし、受験戦争が厳しかったことにも起因している。だが、こういう「必死に勉強して、良い大学に入って、有名企業に入社して、終身雇用で勤めてあげて一生安泰」というモデルは既に過去物語になりつつある。しかも、こういうライフコースに残れたとしても、歯を食いしばって我慢してその中から蹴落とされないように食らいつくだけでは、ストレスで心身がやられやすい。萃点性が失われると、他者比較の牢獄に埋没する。

それは、嫌だ。

子育てをしながら、めっちゃ大変だけどめっちゃわかいい娘との豊かな生活を過ごす中で、娘の他者性や唯一無二性、そして萃点性を理解し始めている。それと共に、娘と相互連関する妻や僕自身にも、唯一無二性や萃点性があることにも、やっと気がつき始めた。そのような相互連関ネットワークの縁起の世界の中で、いま・ここ、の僕たち家族という小宇宙が構成され、繋がる社会が構成されているのである。こういう入れ子構造(法界)をおぼろげながら理解すると共に、僕自身がこれまで抑圧してきた、無視・軽視してきた自らの萃点性を取り戻す重要性を、ひしひしと感じている。

ただ、誤解の無いように付け加えておくと、だからといって因果論的科学や論理性を捨てるのではない。因果論的科学の背景にある「不可思議」な「縁起」に思いをはせ、因果連関で説明できることと、そうではないことの、双方をそのものとして尊重する、ということである。線形性モデルで近似値として捉えられる世界の数理的記述を頼りにしながらも、その論理構造だけでは捉えられない世界の「不可思議」なダイナミズムも、そのものとして感じるのである。「語り得る」ものは論理で語るがゆえに、それと同時に「語り得ぬもの」の縁起世界に想いもはせるのである。(そう言えば安冨先生の『合理的な神秘主義』は、この世界観を言語化されようとしていたとも思い出す。)

これは、まさにコロナ危機の渦中から、その後の世界を眺めた時にも、少なくとも僕にとっては絶対に必要不可欠な世界である。多くの一人一人が、自らの萃点性と縁起ネットワークを意識することで、世界と私のありようは、大きく変わってくると思うのだ。そして、おそらくそれを描いたのが、宮崎駿のアニメ世界なのだと思う。主人子の少女達に共通する、己の唯一無二性と萃点性の自覚、他者の他者性への尊重、および世界との相互連関性への嗅覚の鋭さが、混沌とした世界を生き抜き、連関した世界を変え、結果的に世界を変える原動力となるのだ。(宮崎アニメについては、以前ブログでも触れたことがある)

というわけで、今年は娘と宮崎アニメを色々みるところから、娘と僕と世界の、お互いの萃点性の研究を始めてみようか、と思っている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。