子どもが生まれてから、児童福祉や教育学領域の本を遅まきながら読み始めている。その中で、今年読んだ本のベストに入りそうな一冊と出会った。教育学者が子どもの権利条約をベースにしながら、学校にまつわる5つの論点(「不登校」「学力」「障害」「道徳」「校則」)を論じていくのだが、まず最初に読み始めた「障害」の章で痺れてしまった。
「日本の学校は、分類することによって『多様な』子どもたちを生み出している。なぜ、さまざまな基準を用いて細かく分けるのか。丁寧な指導のため、それがその子のため、と思い込んでいるのだろうが、実際には全体を統一(画一化)していくためである。
まず、分類されることによって、その分類されたグループ内は画一化される。その分類は能率性という観点からなされ、『問題』とされる者たちが集められていく。『問題』である限り、修正を施されることになる。つまり、分類によっていったん名付けられた多様性は、最終的には解消されなければならないということになる。落ち着きがないなどの『問題』を理由に、たとえばその状態に『発達障害』などの医学的な命名がなされ、特定の子どもたちが普通学級から分離されていく。『不登校』も同様である。その『問題行動』の背景に、受験等の競争的学力観によるストレスなどがあるのではないかといった問いが立てられることはない。現象的にわかりやすい部分にのみ着目し、似た者同士が集められ、訓練を施され、何らかの『水準』に達することが期待される。つまり、分類は画一化のための手段ということになる。」(池田賢市著『学びの本質を解きほぐす』新泉社、p146-147)
漠然と日本の学校教育や分離教育に感じていた疑問を、教育学者がこれほどズバリと射貫く表現をしてくれると、気持ちよい。「分類は画一化のための手段」とは、精神病院や入所施設と構造的同一性の論理である。
入所施設や精神病院は、「地域で暮らせない」と分類された人を、画一的に処遇する場所である。両者は本来「通過施設」であり、人生の一時期だけを過ごし治療や療育を受ける場所、という建前であるが、長期社会的入院入所の状態が続いている。その背後にある論理は、池田さんが指摘する以下の構造そのものである。
「その分類は能率性という観点からなされ、『問題』とされる者たちが集められていく。『問題』である限り、修正を施されることになる。つまり、分類によっていったん名付けられた多様性は、最終的には解消されなければならないということになる。」「現象的にわかりやすい部分にのみ着目し、似た者同士が集められ、訓練を施され、何らかの『水準』に達することが期待される。」
そして、障害のある人の差違を「能率性」に基づいて「分類」し、治療や改善が見られたら=差違が最小化されたら退院・退所可能、という論理構造になっていると、いつまで経っても退院や退所は可能ではなくなる。「画一化のための手段」としての「分類」が続いている限り、このような分類による排除はいつまでも再生産されていく。日本でこの20年間、「発達障害」とラベルを貼られる人が急増し、特別支援学校の高等部が雨後の筍のように急増した背景にも、このような「能率性」に基づいた「画一化のための手段」としての「分類」の発送はなかっただろか。そしてそれは社会的排除と軌を一にする。
「認識すべきは、『普通』という権力的・暴力的に設定された軸からズレていることを否定的なニュアンスで意識化させて、期待されている軸に乗ろうとするメンタリティの形成が目指されている、という点である。」(p147)
これは特別支援学校(学級)への指摘であるが、例えば障害者就労の現場でも、これと同種の論理が働いているように思えてならない。「普通の職場」に適合することが善とされて、そこに合わないから「障害者雇用」という特別枠での就労が期待される。いずれも「期待されている軸に乗ろうとするメンタリティの形成」が前提として目指されていて、その軸にどれくらい乗れるか・乗れないか、で査定されていくシステムである。
ただ、池田さんが本書全体で問い直そうとしているのは、そもそもこのような「『普通』という権力的・暴力的に設定された軸からズレていることを否定的なニュアンスで意識化」させる、そのこと自体の問題性である。なぜ学校・学級・社会における「普通」の言動が出来ない人は、社会的に排除されるのか。その時、この「普通」の暴力性や権力性を問うことなく所与の前提として無批判に受け入れ、この「普通」の軸に合うか合わないかで分類し、分類された特別支援学校や障害者施設、精神病院などでも、普通に戻る、という画一化された基準でしか捉えられないことの暴力性について、なぜ不問にしておくのか、という問いである。そういう意味で、精神病院や入所施設の構造的暴力や、社会的排除の論理は、特別支援学校における問題と全くの地続き(同一スペクトラム上)である、とこの本を読んで、再確認することが出来た。
上記の、問題の個人化を問い、社会構造の抑圧課題として問題を解きほぐす姿勢は、他の章でもしっかり主軸として語られている。
「なぜ学校に来られなくなってしまったのだろうか、という疑問は封印されている。学校はそのままの形で存在していてよいのであって、そこになじめない子どもに問題があるという発想をとっている。」(同上「不登校」p42)
「いまの大人たちが、まるでそれが避けがたい方向性であるかのように一定の状況を設定し、その中でうまく生き残っていけるような『力』『スキル』を子どもたちにあらかじめ身につけさせようと考えること自体が問題である。本当にそんなに『大変な』社会状況になるのならば、そのような社会にならないよう、その技術の普及にはストップをかけていくのが今の人間の未来に対する責任ではないのか。」(「学力」p81)
「思いやりなどの心の状態を強調し、『弱者』への配慮こそが問題解決のあり方として肯定的に示されていくとすれば、その『弱者』自身が、自らを弱者に追い込んだ社会を批判し、権利を主張していくことについては否定的にとらえられていくことになるだろう。そのような『主張』は『わがまま』だとされるか、『煙たがられる』ことになる。」(「道徳」p186)
書き写しながら改めて感じるのだが、教育の現場でこそ、「問題の個人化」「自己責任化」や、「社会構造や公的責任について不問とする姿勢」が再生産されている、と強く感じる。事実、僕自身も、大学院生の頃から精神病院問題に関わり、障害者運動に出会うまで、能力主義を鵜呑みに信じ、努力するものは報われると思い、だからこそそれが出来ない人は結果責任だ、と思い込んでいた。そうであるがゆえに、精神病院や入所施設の構造的暴力の問題に取り組んでいる間も、特別支援学校(学級)に関しては、自分の意見を述べるのを、10年前くらいまで、躊躇していた。学力差があったり、普通学級で落ち着いて学ぶことが出来ない子どもがいるならば、別の学級で学んだ方が、「その子のため」になるのではないか、と。
しかし、この「あなたのため」に私とあなたを分離・区別する眼差しこそが、実は当の排除を生むのである。「まるでそれが避けがたい方向性であるかのように一定の状況を設定し、その中でうまく生き残っていけるような『力』『スキル』を子どもたちにあらかじめ身につけさせようと考える」からこそ、その「力」「スキル」を「普通」の子と同じように身につけられない子が、有徴化され、排除される。でも、池田さんは、そもそも「学校はそのままの形で存在していてよいのであって、そこになじめない子どもに問題があるという発想」自体が差別を生み出す、と決然として述べる。「その『弱者』自身が、自らを弱者に追い込んだ社会を批判し、権利を主張していくこと」が「『わがまま』だとされるか、『煙たがられる』ことになる」、そんな差別的な社会構造を問わない限り、この構造は再生産され続けるのである、と。そして、それに僕は深く頷く。
では、どうすればよいのか。そこで出てくるのが、子どもの権利条約の「参加する権利」および「意思表明権」(第12条)や「子どもの最善の利益」(第3条)である。それに関しても、池田さんは至極真っ当な、それゆえキラリと光る発言をしておられる。
「『自己の意見を形成する能力』の<ある子ども>と<ない子ども>がいて、<ある子ども>に対して認められている権利だということではなく、子どもというのは、そもそも『自己の意見を形成する能力』がある存在なのだ、とこの条文は言っているのである。もちろん、うまく意見が言える子どももいれば、なかなかことばにならない子どももいる。だからこそ、『年齢および成熟度に従って相応に考慮』されなければならないのである。しっかりと大人にわかるように意見の言える子どもの意見をより尊重するという意味ではなく、どんな子どもも正しく自分の意見を述べているのであって、それを理解できていないのは、大人の側なのである。条約は、子どもによってはその表現が伝わりにくいこともあるから、その点を大人の側はしっかりと意識(配慮・考慮)して、その子どもの意見を受け止めるようにしなければならない、としているのである。」(「校則」p213)
これは、障害者の意志形成・意志決定支援についても考えてきた&4年間子育てで四苦八苦してきた僕からすれば、本当に我が意を得たり、のような発言である。
うちの娘は、まさに生まれた時から、様々に意思表明をし続けてきた。ただ、おなかが減った、眠い、疲れた、感情のコントロールができない、しんどい・・・と言語的に理路整然と表現出来ないから、泣いたり、叫んだり、ジタバタしたりして、懸命に表面しているのである。しかし、親は非言語的メッセージと出会っても、すぐに何を訴えるのか、が理解できるわけではない。だからこそ、おなかが空いているのか、眠たいのか、感情的に煮詰まっているのか・・・など、どのような意見を述べようとしているのかを推察し、色々試行錯誤しながら、何を伝えようとしているのか理解しようと努める。4才になって、だいぶ言語的表現は出来るようになってきたが、今日も西松屋で「この水筒欲しい」と言ってきかず、どうやったらその気持ちを収める事が出来るか、で15分くらい、ジタバタしていた。これが、『年齢および成熟度に従って相応に考慮』することの意味、そのものである。
そして、これは重症心身障害や重度の知的障害・認知症などで、論理的に言語的表現がしにいくい・できないとされている人を支援する時にも、必要不可欠な視点である。あるいは、自傷他害の行動に陥った人に関しても、同様である。
薬物依存の回復者である倉田めばさんと20年前に出会った時、次のような素敵な言葉を教えてくれた。
「母はよく私に言った「薬さえ使わなければいい子なのに」私は思った(いい子の振りをするのが疲れるから薬を使っているのに・・・・・・)」
「私にとって薬物とは言葉であった。ダルクのミーティングは本来の言葉を取り戻す作業である。自分の言葉を取り戻したときに、薬物が不必要になってくる。」
薬物依存状態の人は、薬物に頼らざるを得ない状況に構造的に追い込まれている。つまり、薬物依存を通じてでしか、自己表現出来ない状況に陥っている。それが、「私にとって薬物とは言葉であった」という意味だと僕は受け止めた。「いい子の振りをするのが疲れるから薬を使っているのに」というのは、「いい子の振り」をさせる(この場合は親子での)権力関係構造をそのまま放置しておいて、「薬さえ使わなければいい子なのに」という眼差しを大人が子どもに向け続けること自体が、薬物依存の悪循環を強化していくのである。これは、薬物依存に限らず、自傷他害と呼ばれる行為や、強度行動障害、認知症の人のBPSDと呼ばれる言動にも共通していると感じる。そのような行為は「普通ではない」し「注意をしても聞かない」から、上記のような症状としてラベルが貼られている。だが、そういう「問題行動」は、生きる苦悩が最大化した人々の、論理的に言語化出来ないが故の、非言語的なSOSの表現なのである。それを、周囲の人間が社会規範や世間的道徳で糾弾するのではなく、本人がそうせざるを得ない内在的論理を理解した上で、どうやったらその悪循環から脱出することが可能か、どうしたらその「自己表現」をしなくても安心して「本来の言葉を取り戻す作業」ができるのか、を本人と周囲の人が協働して考えることが出来ると、そのような悪循環は結果的に収まっていくのである。
そのあたりは4月に出た共著『「困難事例」を解きほぐす:多職種・多機関の連携に向けた全方位型アセスメント』でも一部書いている。そして、実は「解きほぐす」が同じタイトルだったので、この池田さんの新刊情報に興味を持って、著者のことは全く知らない状態で買い求めたら、教育と福祉と、別のアプローチから同じ山を登ろうとしていることがわかり、なおさら共感を持ってこの本を読んでいた。
すべての人には、障害の有無や年齢如何に関わらず、『自己の意見を形成する能力』がある。ただ、年齢や状態によって、その能力の発揮にはでこぼこがある。だからこそ、全ての人が「自己の意見を形成する」ことが充分に出来るように、教員や支援者、親などの応援者が、その人の意思形成や意思表明を応援し続けていく必要がある。それが安心して保障される社会こそ、障害者や子どもの権利が護られる社会であり、ひいては全ての人の尊厳が保障される社会である。
この本を読んで、そのことを改めて感じた。