子どもを育てていてつくづく感じるのは、子どもへの接し方を通じて、自分自身の変容課題と向き合わざるを得ない、ということである。子どもと関わる中で、己自身の癖とか無意識・無自覚な思い込みや偏見が表面化する。それと向き合うのか、子どもの問題だから、とごまかすのかで、大きく変わると思っている。そんな折りに読んだ本で、強く心を揺さぶられた。
「民主主義には、相手の声に耳を傾けることの価値や誰に対してもインクルーシヴであることの価値に加えて、すべての人が自分の気持ちや意見を聞いてもらえるという共通の価値が存在します。」(アルネール&ソーレマン『幼児から民主主義 スウェーデンの保育実践に学ぶ』新評論、p9)
訳者のお一人の伊集守直さんと、ある研究会でご一緒している関係でお送り頂いた。実に素敵な本で、読みながら頷いたり、いてて・・・と自分自身の関わりを問い直していたり、しながら、ゆっくり読んでいった。
何に「いてて」となるのか。それは、ぼく自身が子どもの「気持ちや意見を聞く」ことが出来ているか、子どもの「声に耳を傾けることの価値」を尊重しているか、と問われると、十分に出来切れていないよなぁ、と思うことがしばしばあるからだ。
「民主主義社会に生きる人間であれば、年齢に関係なく、自分の話を聞いてもらう必要があります。生まれた瞬間から亡くなるまで、人は『自分の声』をもつことができます。生まれたばかりの子どもを見てください。小さな赤ちゃんは泣くことで何かを表現しています。そして、泣くことで大人が駆け寄ってきてあやしてもらいます。このような行為が、子どもに影響力をもたせることになります。一方、年老いて最期を迎えようとしている人も、話を聞いてもらうことで家族などに影響を与えるという権利をもっています。」(p39)
僕は娘に注意したり、叱ったりすることで、娘に影響力を与えようとしている。でも、娘だって、「年齢に関係なく、自分の話を聞いてもらう必要があ」る。振り返ってみれば、「赤ちゃんは泣くことで何かを表現してい」たし、親の役割は、その泣き声から、おなかがすいているのか、寒い・暑いのか、しんどいのか、疲れたのか・・・と、どのようなことを表現したいのか、を想像してきた。
ただ、こども園に入る年齢になり、自分で話せるようになってくると、大人であり親であるぼくは「言葉で伝えたらわかってもらえるはず」と思い込んで、子どもにあれこれ伝える。でも、注意したり、何度か伝えたことなのに、子どもが出来ていない場合、やめてほしいことをし続けている場合もある。すると、ついついその理由を聞くことなく、「何度言うたらわかるの!」と頭ごなしに叱りつけたくなる。でも、それは子どもなりの理由を聞くことなく一方的に決めつけている、という意味で、ぼく自身が民主主義的なプロセスを重視していない、ということなのである。「すべての人が自分の気持ちや意見を聞いてもらえるという共通の価値」を大切にしたいのに、自分自身が娘に対して、それが出来ていない。これが、いてて、と感じる最大の意味だ。
「私たち大人は、子どもを対等な存在として見ていないために叱るという接し方をしています。もし、子どもの行動が大人にとって望ましいものでなければ、多くの場合、『それはよくない行動だ』と解釈してしまいます。しかし、子どもの視点から見れば、その行動は私たちが叱るといった対象ではなく、関心をもって学ぶべき、合理的で論理的なことかもしれないのです。」(p86-87)
これを書き写していて、さらに「いてて」が広がる。なぜって、それは福祉における「問題行動」「困難事例」を扱うときに、ぼく自身が常に意識してきたこと、そのものだから。
親が子どもを叱るとき、「『それはよくない行動だ』と解釈して」いる。でも、子どもにはそうする内在的論理がある。つまり、親にとって問題だと感じても、子どもにとっては「合理的で論理的な」理由があるのである。それは、『ゴミ屋敷』などにも共通する論理である。そういうことを講演で何度も支援者向けに伝えながら、いざ子育てになると、自分自身が思う「望ましさ」を子どもに押しつけて、それに従わないからと叱っている。それは、「私たち大人は、子どもを対等な存在として見ていないために叱る」ことそのものなのである。言っていることとやっている事が違うじゃん、と。これでは、子どもの手本にはならないなぁ、と。いてて、いてて・・・。
この本を読んだり、観察が大切だとこども園の先生方から教わったこともあり、最近は叱りたくなったら、とりあえず深呼吸をして、子どもに理由を聞こうとしてみる。すると、「その行動は私たちが叱るといった対象ではなく、関心をもって学ぶべき、合理的で論理的なことかもしれない」ということが見えてくる。子どもなりに、そうしたくなる理由があるのだ。
「それがじゃまだった」「○○ができるとおもった」「××をやってみたかった」
これらの理由は、大人のぼくからすると、非合理であったり、受け入れにくいものである場合もある。でも、いずれにせよ、子どもなりの合理的で論理的な理由があるのだ。それを頭ごなしに「何してんの!」と叱り飛ばしてしまうと、子どもはその理由を「親に言ってはいけないんだ」と思って、本心を言わない子どもに育ってしまう。それでは、「すべての人が自分の気持ちや意見を聞いてもらえるという共通の価値」を尊重していないことになる。だからこそ、「言い訳を言うな」ではなく、まず子どもなりの理屈を教えてもらう必要があるのだ。その上で、子どもなりの理由(合理性や論理性)と、大人のぼくが考える合理性や論理性の両方提示した上で、どちらの方が良いかを一緒に考える必要があるのである。
それは結構面倒くさいし手間がかかること、である。でも、よく考えてみたら、子育てとは、そのような面倒くさいし手間がかかるプロセスそのものである。でも、そのプロセスを共有するからこそ、子どもが育つ、だけでなく、子育てを通じてぼくたち親自身も学び直す事が出来るのかも知れない。
「これまで伝統的に、大人は自分の視点で、さまざまな方法によって子どもたちの評価を行ってきました。しかし、『関係的な視点』から子どもたちを見ることで、子どもたちがどんな人間『である』かではなく、どんな人間『になる』可能性を含んでいるのかが理解できるようになります。そしてそれは、子どもと大人の出会いや関係がどのように築かれるのかということに影響してきます。」(p171)
子どもの声にまず耳を傾けることなく、「○○するな」「何度言ったらわかるの!」「だめでしょ」といった言葉が絶対にダメ、な理由は、「子どもたちがどんな人間『である』か」を固定してしまうような言説だから、である。親や教師の言うことが絶対で、その絶対的なルールを逸脱する・受け入れられない・守れない、からダメなやつだ、と決めつけているし、それによって、子どもの可能性は縮減されてしまう。
子どもは大人に比べて遙かに可塑性に富んでいて、様々な「人間『になる』可能性を含んでいる」のである。だからこそ、子どもなりの内的合理性や論理性を、それが稚拙であったり我田引水的であろうと、まずは聞く必要があるのだ。それは、「子どもと大人の出会いや関係がどのように築かれるのか」に大きな影響を及ぼす。つまり、子どもとぼくや妻がどう関わるか、という「関係的な視点」で考えると、子どもを通じて僕たちも成長できるし、その親の成長は子どもの成長にも伝わる、のである。
そうは言っても、子どもの言うことをじっくり聞いたりするのが、面倒くさいときもあるし、イライラする時だってある。でも、そんなときこそ、次のフレーズを思い出したいな、と感じている。
「子どもたちは、制限されるのではなく、責任を持つことについて学ぶ機会を必要としているのです。子どもたちが大人に対して自らの『道』を示してくれるように、私たち大人は、子どもたちが一歩踏み出すことができるような『道』を示さなくてはいけません。」(p181)
そう、道を指示するのではない。そうではなく、子どもが責任を持って自分の道を歩めるように、その一歩踏み出す後押しをするだけでなく、大人自身が相手の声に耳を傾けながら責任を持って歩き続ける「道」を示す必要があるのだ。大きな自戒を込めて、そう書き記しておく。