己の唯一無二性を自覚する

やっと授業がおわったので、今年の初投稿。

こないだツイッタで、非常に印象深い図に出会った。「大学でインポスター症候群(周りの評価よりも自分のことを過小評価すること)をなんとかしようみたいなオンラインレクチャーがあったときに提示された図」と書かれた図が、本当にぼくのニーズにぴったり合った図だった。

ぼくは先月くらいまで、ずーっと「知識が足りない、足りない。。。」と思い続けてきた。博識ですね、とか、大量の本を読んでおられますね、と言われることも最近増えてきたが、ぜんぜん本人の自己意識とは違って、「まだまだ学びが全然足りない」と思い込んできた。

それには理由がある。ぼくが専門性がない、と思い込んできたからだ。

実際、大学の研究者の大半が、ご自身の専門をしっかりと定め、それを深掘りしておられる。一方、ぼくは、興味の向くままに、あれこれとつまみ食いしている。ここしばらく、原稿依頼されたのは、「レジリエンス」「ボランティア」「コロナと精神医療」・・・と、テーマはバラバラである。今、校正している紀要原稿は「アクターネットワークと義父の死」だし、連載中の原稿タイトルは「ケアと男性」。大学院の授業では「子どもの貧困」についての本を読みあさってきたし、ファシリテーションやオープンダイアローグの本を読んでいたか、と思うと、新自由主義批判の本とか若者支援の本を研究会で読み続けている。最近集中的に読み進めている吉福伸逸さんのことが、『ファシリテーションとは何か』の中野論文で描かれていて、一人でにんまりしていた。本当に雑多でまとまりがなく、深みがない。ハチャメチャである。だからこそ、いつまでも専門がないのだ、と落ち込んでいた。

でもそれって、各分野の専門家の深みのある知識と比較して、「ぼくは全然知らない」という、「ないものねだり」の発想だった。ただ、今頃になって気づいたのだが、ぼくの守備範囲はどうやら結構広いらしい、ということ。確かに福祉領域の研究者で、権利擁護も精神医療も地域包括ケアもオープンダイアローグもカバーしていて、魂の脱植民地化とか能力主義を問い直す視座に基づき、それなりに原稿を書いたり、講演や研修をしたりしている人材は、あんまりいないんじゃないかな、と改めて気づく。つまり、他の人が色々深めている複数の領域を興味向くままにあれこれ囓りながら、それを自分なりに統合しているのが、ぼく自身の「知っていること」なのだ、とやっと気づかされた。

だからこそ、他者比較の牢獄に陥る必要は全く無いし、他者と比較するだけ無駄である、と改めて気づかされた。

ちなみに、imposterとは詐欺師の、という意味である。ぼく自身、自分は専門を深めていないのに大学でずっと働いている、という意味で、詐欺師とまではいかないが、ずっと自分が「うさんくさい」と思っていた。そして、imposter syndromeって結構有名な概念のようで、こんな整理もあった。正直知らなかった。

これを読みながら改めて思ったのだが、「他人から評価されているにも関わらず、自分が偽物であるという感情を抱いている」というのは、ぼく自身の心象風景そのものである。それは、ぼくが一つのことに没頭できず、あれこれとつまみ食いして渡り歩いてきたし、だからこそ未だに専門はこれだ、と言えないし、それが中途半端の極みだと思ってきたから、である。

でも、よく考えてみたら、ぼくは他者より広い守備範囲を持っていて、それをつなぎ合わせて言語化することが、己の唯一無二性なのかも知れない、とやっと腑に落ち始めた。というか、それぞれの領域をグッと深めるなら、他の領域の学びを削るしかない。でも、ぼくはあれもこれもどれもそれも、気になることは知りたいし、囓りたいし、自分の経験に引きつけて考えたい。ならば、専門を一つに定めず、あれやこれやを行ったり来たりしながら、それを面白がって、関連付けて、自分なりに言語化して、深めていく。一つの学会や専門家集団に貢献することはあんまりできないだろう。でも、そういう雑多な知をハイブリッド的に結びつけていくことで、現場のわけのわからん問題に対応する対応力は増しているし、それなりに社会貢献も出来ている様な気がする。

実際、ぼくの所に「ご相談があります」と持ち込まれる案件って、どれも「非定型」案件ばかりである。普通の専門家のところには持ち込まれない、色々な要素が絡み合った課題が、なぜかぼくの所に持ち込まれる。こちらはそもそもどうしていいのかわからないので、相手に困っていることを話してもらい、こちらからおたずねをしながら、絡み合った糸をご一緒にほぐしていく。するとある時点で「やっぱり、そうなのですね」と言われることがある。つまり、相手が意識していなかった、でも言われてみたらその通りで納得出来る、そういう要素を探り当てていくプロセスである。それは、断片化された情報をつなぎ合わせて、相手が自分が納得出来る形で体系化する支援、というのだろうか。実際、ぼく自身がやっていることを、相手にもやってもらう、という感じなのだが、案外それは具体的な問題を解決したり、前に進める上で、役立っている。

王道の研究者は、それぞれの専門を深掘りして、極めてくれたらいい。でも、ぼくは飽きっぽいし、一つの深掘りは向いていない。であれば、あちこちの鉱脈をランダムに掘り進めながら、その根底でつながる部分を自分なりに横穴を掘ってつなげて、それを言語化していく仕事が出来たらそれでいいし、それしかぼくのオリジナリティはない。そして、それは時には他者にも役立つアプローチとなり得る。そう思い始めている。

40代後半まで気づけなかったのも、愚かと言えばその通り。でも、ここで腹をくくって、ぼくの実存に引きつけながら、面白さをどんどん横串していったら、それはそれでオモロイ未来になるのではないか、と夢想している。

それが、己の唯一無二性の自覚になれば、いいのだが。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。