対話と「結び」

最近、ゼミをしていても、あるいは福祉現場の人との対話の場においても、相手の話をじっくり伺っているなかで、相手と「つながった」と感じることが少なくない。今日は午前中、1:1で福祉現場の方のモヤモヤのお話しを伺った後、卒論〆切Ⅰ週間前の4年ゼミでの対話の時間だったのだが、どっちも深く「つながった」感覚があって、なんかめっちゃいいなぁ、とほっこりしていた。

この「つながった」感覚って何だろう、と考えていたら、それは合気道で言うところの「結び」かもしれない、と思い始めている。合気道は、武道の一つなのだが、勝ち負けを目的にしていない。相手を負かすことではなく、相手とつながり、二つの身体が一つのものとして機能していこうとする。ぼくは、合気道の稽古が十分に出来ていないこともあって、技にこだわってしまい、相手との「結び」が出来てない。だが、日常生活に置き換えてみると、対話の場においては、もしかしたら「結び」が出来つつあるのかもしれない、と思い始めている。

相手と対話する際に、邪な意図を持っていては、絶対につながれない。話を導いてやろうとか、こういうことを聴きたいとか、こちらが勝手な先入観や意図を持っていると、その自分の意図に支配されて、その枠組みでしか、相手と出会うことが出来ない。すると、その意図が相手に伝わり、その枠内に縮減して話を伺うことになったり、それに不同意で怒った相手にこちらの枠組みをぶち壊されたりする。いずれにしても、相手の話を部分的にしか理解出来ないことになる。相手が伝えたい全体像を、そのものとして受け取ることは出来ない。

だから、最近では、対話の場では、向こうが用意して下さった資料があっても、事前に目を通すことはあっても、なるべくそれを手放して、ぼんやり話を伺いはじめる。

相手の話をじっくり聴きながら、いくつかのきっかけになるような質問を出してみながら、その人の思いや全体像のようなものを、語られる中身や雰囲気を味わいながら、聴き続けていく。感じようとする。すると、ジワジワ、言外の想いも含めた、その人のありようみたいなものが、みかん汁で書いた「あぶり絵」のように、浮かび上がってくる。こちらも感応できはじめる。それをさらに掴もうと、「いま・ここ」で感じる感想や質問をしてみた上で、さらに「あぶり絵」がし見えてくるのを、一緒に探る。

ここで大切なのは、実は話を聴く相手も、最初から結論(あぶり絵の中身や実態)をわかっていない場合が多い、ということだ。自分にとって当たり前すぎて、考えたこともなくて、わからなくて・・・言葉にしたことも人に伝えたこともないことを、ぼくの質問がフックになって、話し始めてみる。その中で、対話を深めていくなかで、ふと口をついて出たフレーズが、実はすごく大切なその人の「思いの核」になっているような何かで、それが出てくることによって、これまで寸止めしていた・言語化出来なかった・せき止めていた感情や感覚が、あふれ出る泉のように湧き出すことがある。そういう場面に、数知れず立ち会ってきた。嬉しくて溢れるような笑顔になって見る見る自信が持てた瞬間とか、蓋をしていた感情があふれ出して涙が止まらなくなる瞬間とか。対面であれ、オンラインであれ、そういう瞬間に立ち会うことが、ほんとうに最近しばしばある。

そして、そういう瞬間とは、対話を通じて、自分と相手の区別を越えて、相手と「結び」を作れた瞬間なのではないか、と思い始めている。聞き手のぼくが溶け込んで、発話者の相手の思考が開かれて、それが拡張し、華開いていく瞬間に立ち会う喜び。こちらが相手の中に意図して入り込む、とかではない。計らいは邪魔なだけだ。そうではなくて、ぼくの存在が自然と消えていき、相手の思いや感情がそのものとして賦活され、流れが生まれはじめ、その流れが蕩々と言葉になってあふれ出し、その物語の豊穣さが対話空間にあふれる瞬間、ああ「つながっている」と感じるのだ。そして、その感覚こそ、相手の身体と一つに繋がる「結び」の感覚なのではないか、と。

たまに、「相手の顔に書いてある」ことをこちらが言うだけで、「そうそう、それこそがいいたかったんだ!」とか、「なんで、誰にも言えなかったあのことがわかるんですか?」とびっくりされることがある。ぼくには別に超能力があるわけでもないし、相手の心が読めるわけでもない。ただ、じっくり相手の話を聞いているうちに、相手の伝えたいポイントが見えてくるのだ。それを言語化して、それってこういうことですか、と差し出すと、さっきのような反応が来る。これは、本当に「相手の顔に書いてあること」を読み取るかのように、相手の話をじっくり聞いて・感じて、理解できたことを伝え直すだけなのだが、もしかしたらそれはなかなか世間ではできていないのかもしれない。だからこそ「こんな深い話を初めてしました」と驚かれることが最近しばしばあるのだ。

そういう対話のコツはなにか。純粋な興味を持って聴き続けること。その際に、「相手の思いの背景や全体像のようなものまで教えて欲しい」とただ願うこと。そう願いながら聞いているうちに、全体像につながる「あぶり絵」が浮かび上がってくる瞬間がある。そうすると「それってこういうことですか」と差し出してみる。そこから聞き手のぼくが徐々に消え始め、語り手である相手の全体像が、ぐわーっと対話の中で、その姿かたちを表し、動きはじめる。そうすれば、しめたものも。後はその動き出したなにか、がどんな感じなのかを、相手と一緒に探求していくだけで、物語が大きく動き始める。

ひとたび「結び」ができてしまうと、そのつながりを邪魔しなければ、物語は自己生成的に豊かに膨れ上がっていく。だがそれは、ChatGPTといったオープンAIのように既に語られた何かから生成されるものではない。相手の心の中に確かに存在していて、でも未分化な、言語化されてない、もやもやな何か。そんな何かが、ぼくとの対話の中で立ち上がってきて、初めて自己生成される瞬間なのでる。オープンAIのプロセッシングなんか比べものにならないほど、感動するし、予測不能な創発が生まれる瞬間である。

それって絶対内田先生ならブログに書いているはずだ、とググってみると、2005年に「コヒーレンス合気道」と言語化されていた。

「「コヒーレンス」coherence というのは「一貫性、整序」という意味であるが、ようするに「足並みが揃っている」状態を表す。」
「強いコヒーレンスをもった生物がコヒーレンスの弱い生物とコンタクトをとると、強いコヒーレンスに「足並みが揃ってしまう」ということがあるのではないか。」

ここで書かれている「足並みが揃う」、というのは「空気を読む」とか「同調圧力」とは次元が違う量子物理学の話であり、「それぞれの波動の位相が揃い、同調するにつれ、ひとつの巨大な波やひとつの巨大な原子内粒子として活動しはじめる」という話である。それを読み返していると、最近読んだ別の本にも触れたくなった。

「『存在するもの』は、その網のはかない結び目(ノード)でしかない。その属性は、相互作用の瞬間にのみ決まり、別の何かとの関係においてだけ存在する。あらゆる事物は、ほかの事物との関係においてのみ、そのような事物なのだ。」(カルロ・ロヴェッリ『世界は「関係」でできている—美しくも過激な量子論』NHK出版、p196)

一貫性や整序がより整った存在が、そうではない存在と相互作用をすると、相手に同期して、弱いコヒーレンスの人の足並みが揃ってくる。相手との相互作用の瞬間における「結び」が「はかない結び目(ノード)」を生み出し、それが「そのような事物」性(=存在するもの)となる。

今まで書いてきたことを整理するならば、対話という場面において、何をどう言っていいのかわからない、言葉が出てこない、モヤモヤしていて訳がわからなくなっている場面の人(ゼミ生や福祉現場の人)とお話しする機会が多い。その際、僕が自分の一貫性や整序を大切にして、ぼんやりリラックスしながらも、「いま・ここ」を大切にしながら相手の話をゆっくりじっくり聴いていく。すると、相手の中での一貫性や整序(コヒーレンス)も整いはじめる。その中で、相手との「結び」が生まれ、そのはかない結び目(ノード)が徐々に複雑で豊かな結び目として立ち現れ、それが圧倒的な物語の自己生成につながっていくのではないか。だからこそ、ぼく自身は、対話で邪な意図や計らいを捨て、自分自身とつながる。自分自身の一貫性や整序を大切にして相手に向き合えば、自ずと相手がそのものとして存在しはじめるのではないか。そんな仮説を抱いている。

問題は、これが合気道では上手く出来ないこと。また、稽古をしながら考えてみよう。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。