診断名をカッコにくくる、の先にあるもの

10年以上前、精神病という病気ではなく、生きる苦悩に目を向けよ、というバザーリアの言葉に衝撃を受けた。そのことは、論文にも書いた。診断名をカッコでくくる、という現象学的精神医学の面白さは、『当たり前をひっくり返す』の中でも描いた。だが、診断名をカッコでくくったあと、ではどうするのか、がもう一つぼんやりしていた。

今日ご紹介するのは、その生きる苦悩にどのように焦点化すると、医学モデル的な診断に依存しなくても、精神病状態に関わることができるのか、が理論的にも実証的にも整理された、迫力ある一冊、イギリスの臨床心理士二人による大著『精神科診断に代わるアプローチ PTMF 心理的苦悩をとらえるパワー・脅威・意味のフレームワーク』である。読み始めたら面白くて、他の本を放り出して、読み終えてしまった。

眠れない、幻覚や妄想に囚われる、不安感が強い・・・そういった状態に、世界的に用いられているDSMなどの標準化された診断基準を当てはめるのではなく、Power(パワー)、Threat(脅威)、Meaning(意味)のFramework(フレームワーク)から以下のように問い直すという。

・「どんなことがあなたに起きましたか?」(パワーは人生にどのように作用しているのか)
・「その出来事はあなたにどのような影響を及ぼしましたか?」(そのことは、どのような脅威をもたらしているのか)
・「あなたはそのことをどのように理解しましたか?」(そうした状況と経験の意味はどのようなものか)
・「生き延びるために、何をする必要がありましたか?」(どのように脅威へ反応しているのか)
・「あなたの強み(ストレングス)は何ですか?」(パワーリソース(力を与えてくれるものや人)と、どのようなつながりをもっているか)
そしてこれら全てを統合するために、
・「あなたのストーリーを教えてください」(p32)

これって、岸政彦さん達が主張している「他者の合理性の理解社会学」そのもの、である。そのことはブログにも書いたが、相手の人生に生じた生きる苦悩や不安の最大化状態を、そのものとして理解しようとする試みである。一方、標準的な精神医学であれば、DSMのマニュアルに記載されている内容に沿った話が聞かれ、それ以外の内容は「診断基準に関係ないから」と切り落とされている。でも、睡眠障害や幻覚妄想などが同じ状態であっても、なぜそのような状態に至ったのか、のプロセスは千差万別で、標準化できない。それを標準化できる範囲に切り落として聴くのが診断的な聞き方とするなら、PTMFで焦点化しているのは、それとは全く正反対の聞き方である。相手の実存的苦悩を、相手の内在的論理を、他者に非合理に見えても本人には合理的なプロセスを、そのものとして聴く、ということである。その聞き方は、恐らく生活史の聞き方と通底しているはずだし、というか、精神病状態に至った生活史を伺っていくのなら、上記の質問は必要不可欠になる。

しかも、この聞き取りの際に、生きる苦悩を個人の悲劇と矮小化せずに、その苦悩の背後にある社会構造の抑圧を、そのものとして捉えようとする。例えば、こんな風に。(p92)

DSMの診断基準:「現実にあるいは想像上で見捨てられることを避けるための尋常ではない試み」
現実:何十年もの間、扶養者や家族から強制的に引き離された

DSMの診断基準:「アイデンティティの障害:顕著で不安定な自己イメージあるいは自己の感覚」
現実:家族、親族とのつながり、故郷、祖国の喪失

DSMの診断基準:「慢性的な空虚感」
現実:度重なる喪失、トラウマと力を失うことに寄る悲嘆、絶望感

DSMの診断基準:「不適切な、激しい怒り、あるいは怒りのコントロール困難」
現実:迫害や強制的な同化政策、司法や医療、教育制度での差別によって、さまざまに蓄積されたトラウマ

ここで描かれている対比は非常に示唆的だ。一見すると、DSMの診断基準は、目の前で起きている状況を適切に描いているように思える。だが、「尋常ではない試み」や「慢性的な空虚感」「激しい怒り」・・・がなぜ・どのように生じるのか、の背景を探ろうとしない。そういう状況にあるのだから、この薬を処方すれば、その急性症状は治まる、という発想である。

だが、家族から強制的に引き離れたり、トラウマによる絶望感がひどかったり、生きていく中で差別を繰り返し受け続けたり、という「社会的現象」は、薬を飲んでも消えない。薬を飲んでぼんやりするという「副作用」によって、その苦しみは一時的に負担感が減るかも知れない。でも、鋭敏な感覚が戻ってくると、怒りや悲しみ、不安や恐れは何度も何度もぶり返す。それくらいの圧倒的な体験をしているのである。とはいえ、DSMの診断基準では、その圧倒的な体験にアプローチすることはないので、その「症状」と折り合うことは難しい。

著者達は、こんな風にも書いている。

「ほとんど全ての苦悩の体験の根底には、自分がどう考え、感じ、行動し、人生を送るべきかという(多くは隠された)前提と、基準や理想に従って生活することの失敗(事実であれ、そう思ったのであれ)とのぶつかり合いがあることも見てきました。こういったことは、現実の困難に直面しているのか、目指しているものが非現実的なのかにかかわらず、結果として自分を責めることになり、さまざまな心の痛みを伴う意味に繋がるのです。(略)
診断モデルと対照的に、PTMFは私たち個人の意味づけに関して、その源である社会的な期待やイデオロギーの圧力にまで遡ってみることを推奨しています。」(p94)

確かに、ぼく自身が経験してきた苦悩も、「どうしたいのか」と「どう失敗した・うまくいかなったのか」の「ぶつかり合い」がある。そして、○○したい、という基準や理想には、新自由主義的価値前提とか、消費者主義とか、偏差値至上主義、親や先生に褒められたい・評価されたい・・・など、様々な「社会的な期待やイデオロギーの圧力」がある。それをそのものとして炙り出すことが、すごく大切なのだと実感する。

最近、スキーマ療法の本も読み漁っていて、個人の認知枠組みを変える威力はすごいな、と思っていた。そういう認知枠組みを変えるフレームワーク(認知行動療法:CBT)の威力を認めつつ、著者達は以下のように警鐘をならす。

「CBTには有用な側面もありますが、そのほとんどが、社会的文脈の役割を軽視し、問題と解決策を主に個人の中に置くことで、診断的思考を支持し、維持するものです。」(p114)

たとえば前回のブログに書いたが、ぼく自身の早期不適応スキーマとして、他者評価や他者比較を自動思考的にしてしまう、というスキーマがある。そして、その認知の歪みを理解し、それをどう変えていくのか、がCBTやスキーマ療法で問われている。だが、その社会的文脈を掘り下げるなら、僕は団塊ジュニアで、僕の両親は団塊世代だった。父親は出張が多く、戦時中に父親を亡くし、母子家庭で育って、「もう家事はしたくない」と思って結婚し、家事育児を専業主婦の母親に丸投げした。そして母親は、3歳下の弟が生まれたあともワンオペ家事を続けて一杯いっぱいだった。そんな母親を見ていて、「お兄ちゃんだからしっかりしなければ」と刷り込まれた3歳のひろっちゃんは、親の目線を内面化して、ちゃんとする、きちんとする、しっかりする、を頑張って守ってきた。これが「他者評価や他者比較に縛られる僕」の社会的文脈であり、男性稼ぎ主型モデルがもたらした弊害でもある。この専業主婦モデルのパワーが竹端家にどのように働き、いかなる脅威をもたらしたのか、を見ることなく、「僕の認識を変えればよい」になると、それは自己啓発本の世界になる。だが、そこで、昭和的頑張りズムが団塊ジュニア世代にどのように作用したのか、という社会構造の歪みと個人の歪みの相互作用を、そのものとして捉えることに、このPTMFの意味や価値があるのだと改めて思う。

そして、社会構造がどのように個人の認知に作用しているのか、について、以下のように指摘している。

・脅威とパワーのネガティブな影響の蔓延について、それを認識することへの抵抗が社会の全てのレベルにおいて存在する。
・脅威と脅威への反応を切り離し、「医学的な病」のモデルを維持することには、個人、家族、職業、組織、コミュニティ、ビジネス、経済、政治などの多くの既得権益が絡んでいる。
・このような影響が相まって、自分の経験を自分の言葉で意味づけるための、社会的に共有された思考の枠組みが奪われている。(p110)

「どうせ」「しゃあない」「世の中はそういうものだ」・・・こういう諦念の中には、「脅威への反応」である場合が少なくない。あるいは、薬物やアルコールの濫用、リストカットやオーバードーズ、不眠症や幻覚妄想などの「医学的な病」も「脅威への反応」と言えるかもしれない。だが、「脅威とパワーのネガティブな影響の蔓延」を、そのものとして認識することは恐ろしい。なぜなら、自分はそういうものに襲われている、と思うと、生きているのが不安になるからだ。だからこそ、「どうせ」「しゃあない」と蓋をして、見ない振りをしたくなる。しかし、それに目を背け、蓋をしても、蓋をしきれないほどの不安やしんどさがあふれかえってくる。だからこそ、薬物やアルコールの濫用、リストカットやオーバードーズ、不眠症や幻覚妄想などの「医学的な病」という形で「脅威への反応」をするのだ。

その際に、そういう「脅威への反応」をなぜしてしまうのか、を分析し、蓋をそのものとして見つめ直す必要がある。「自分の経験を自分の言葉で意味づけるための、社会的に共有された思考の枠組み」を取り戻す必要があるのだ。僕は東日本大震災の直後、一次的存在論的安定の蓋が取れてしまい、気が狂いそうになった。その直後からブログを書きながら、最初の著書『枠組み外しの旅』に結実していくのは、呪縛的に機能した脅威への反応としての思考枠組みの蓋を外し、自分の経験を自分の言葉で意味づけるための、新たな別の思考枠組みを構築するための、命がけの旅だったのだ、と思う。それをすることで、僕は気が狂う一歩手前で、戻って来れた。これは、まさにぼく自身に降りかかっているパワーを分析し、そこにいかなる脅威があるのか、を読み解いた上で、そうした状況と経験の意味はどのようなものか、を価値付け直した。それを、ぼく自身が取り組んで来たストーリーに紐付けて著作化した、という意味では、今思えばあの本はPTMF的な本だったのだ、と気づいてしまった。

だからこそ、このPTMFのフレームワークは、僕を強くエンパワーしてくれるし、色々これから考えて行く上での補助線になりそうだ。もっと色々書きたいけど、とりあえず今日はこのくらいにして、興味を持ったら、是非ともこの本を買って読んでみて欲しい。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。