メガネの構造と方法序説

この夏は、自分のメガネの境界、だけでなく、自分のメガネの背景野そのものを眺めようとしている。だから結構頭を使う。

大学の紀要でこの夏、一本論文を書くことになっている。学科20周年特集号で、所属教員全員が、2万字で何かを書け、ということになった。
この夏、もう一本論文を書いているので、計二本、8月末締め切り、というスケジュールである。しかもその一本が、このブログに7月連作した内容を元に「枠組みはずしの旅」と題した内容にしようとしている。ようやく昨日初稿を書き終え、今はしばしの「寝かし中」。
で、今日からようやく正式にその紀要論文に取り組むことになったのだが、あと20日強! 一番安直な手段としては、以前に書いた未公開論文や報告書の焼き直しを行うこと。確かに、一本該当する論文は、あるにはある。だが、「生きている時間は長くはないのに、お茶を濁すような文章を書いて、時間を無駄にしたくない」と思い始めている。あるいは、いつもアドバイスを下さる学科のM先生に相談した際に、「もうD論も書いたんだから、もう少しノビノビ書けばいいじゃん」と背中を押されたことも、大きい。
僕は、査読論文の数こそ多くないものの、決してアウトプットの量は少なくはない。いろいろな現場で調査をしたことは、なるべく活字に残しておきたい、と思い、あれこれ書いてはきた。その時々に必要なことを、あるいは求められた内容を、その当時の自分なりに努力して書いてきた。だが、最近その書くスタイルに限界を感じている。どう表現していいのかわからないのだが、簡単に言えば、文章スタイルの脱皮を模索しているのだ。
もともとこのブログが、その文章スタイルの模索の場として機能してきた。だから、実験的に小難しい文章をこねくり回す機会が少なくない。(いつも読んでくださる方、すいません)
ただ、こないだの連作を書いて、それを論文に直す作業をしながら感じていたのだが、自分の感応した直観や経験した何かの「類同性」を、既成の何かの文脈や理論の中に無理やり落とし込むことなく、その「類同性」から立ち上がる何か、を文章化したい、という思いだ。それは、ちょうど前々回のエントリーで紹介した本から触発されたことでもある。
「私達が言語表象化出来るのは、さまざまなレベルの小さな全体-変動し続ける細部-の変動に現れる同一性を帯びた位相的類同性だけである。この位相的類同性を指標に、私達はある細部をひとつの全体として感受し、言語表象化することができる。」(石田秀実『気のコスモロジー』岩波書店、p323)
論文という形でまとめることは、ある一定の世界観なりコスモロジーの表明である、と今なら思う。だが、以前書いてきた論文の中で、どれほど「コスモロジー」を意識していただろうか。流動変化する世界を、その流動変化の本質が内包する「位相的類同性」を損なうことなく表現しようとしていただろうか。いや、今までの文章は、自分が理解できる範囲内での因果論に無理やり押し込めてはいなかったか。出来合いの因果論のコスモロジーに矮小化してはいなかったか。
「対象化した事物相互の間に、原因-結果の関係や、際限なく分けられる二分割過程、さらには事物をつらねる物語の網の目、といった関係性を設定しないと『分かったことにならない』と思ってしまうのは、『私-表象の心』のくせ、あるいは先天的病気なのかもしれない。」(同上、p126)
海外調査のレポートが「隔靴掻痒」に感じるのは、実はこのあたりだ。ある程度集められる文献を読み込んで、現地でインタビューをしながら確認しても、結局積み上げられる因果関係は、こちらの少ない情報(偏見)に基づいた範囲内でしか、ない。もちろん、それでもそれなりのストーリーは導き出せるし、その中での知見もある。だが、ある程度時間をかけて、その流動変化する全体を掴んだ上での記述でないと、書いていてわくわくしない。そのわくわくしなさ、は陳腐な因果論のコスモロジーに矮小化すること、と思えば、今なら大いにうなづける。なるほど、現場の流動変化する何かを、その位相的類同性を立ち上げる形でのコスモロジーなり体系化、構造化ができていなかったのだ、と。
だが僕だって、全くそれができていなかったわけではない。以前、半年間スウェーデンに暮らしていたときのレポートは、今から思うともう少し書きぶりは別にあるのでは、とも思うのだが、内容としては満足いっているのは、その当時、かなり時間をかけて、じっくり問題に向き合って、現場から立ち上がる「類同性」を看取し、自分なりのコスモロジーを小さくとも立ち上げようとしたから、だろう。
今回、紀要論文としてこれから書こうとしている内容は、少なくとも、ある現象を原因-結果の安直な物語で語る何か、ではない。そうではなくて、僕が見てきた現場、書いてきた内容、かかわった関係性の中に、どういう共通の要素があり、自分自身がその現場にどう向き合い、そこから何が見えてきたのか、の、自分なりの「方法序説」的な何か、である。自分には何が見えて、何を見ようとしてこなかったのか。どういうアプローチは得意で、不得意なのか。自分のメガネの偏りはどんな特徴を持っていて、捉えやすいものと、見失いやすいものは何か。そういった、自分の認知の偏り自体の記載、メタ認知的な何か、を気がついたら書こうとしている。だから、文体に迷い、今日は結局一行も書き出せなかった。(ま、夏バテもあったのだけれど)
「福祉現場の構造に関する現象学的考察」
そう、仮にタイトルをつけている。何かが立ち上がってくる予感はしている。でも、予感を実感に変えるために、自分の内奥に耳をもっと傾けなければならない。あなたは何を聞いて、何は聞かなかったのですか。あなたの感じるセンサーが取り上げたものと、取り上げてこなかったものは何ですか。
いつもは現場の誰かにインタビューしている。学生に問いかけている。でも、問いの対象は、ほかならぬ自分自身。書き手のタケバタは、調査対象者の竹端に鋭く迫らねばならぬ。だが、その迫り方を、ほかならぬ対象者も熟知している。だからこそ、下手をすると自己撞着になりかねない。ゆえに、そのメガネの境界を辿るような、単純なレトロスペクティブではない、深堀をしないと、書き手も対象者も、飽き飽きしてしまう。
自分についての論及で、新たに自己発見することの難しさ。
しかし、その作業を通じて、自分自身が思っていなかった・気づいていなかった何か、が立ちあらわれてくる内容でないと、自分自身が書いていてわくわくしない。ストックフレーズにまみれた、これまで使い古したレトリックでは、書いている自分自身が幻滅してしまう。生きている時間には限りがある。紀要であってもパブリッシュされる何かであれば、未知の世界に通じる穴を開けるような、そういう試みは忘れたくない。
自分自身のメガネの構造を分析する中での、方法序説。井戸の底を抜く作業。
思っても見なかった別の世界に出るために、一歩一歩、井戸をせっせと掘り続ける。どこにたどり着くかは、わからない。でも、穴を開けた先に、今より少しは見通しのよい、少しは色鮮やかな世界に出会うために。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。