ケアを軽んじてはいないか

2020年2月27日の、首相による来週からの学校一斉休校の要請のニュースを聞いて以来、ずーっとモヤモヤや違和感が回り続けていた。ツイッタやネットニュースで色々な記事を追いかけてもいた。でも、どう表現してよいのかわからない。ブログを書きながら整理しようか、と思った今朝、高松で子育て中のママサークル『ぬくぬくママSUN’S』の代表をしている中村香菜子さんからメッセージが飛び込んできた。

「竹端先生、頭がパニック。自分はどうすればいいのか、 一分一分決断を迫られます。私たちは行政の委託事業じゃない、だからこそどう立ち振る舞うのか。私たちしかできないことはなにか。言語化も頭の整理もできない~」

ちょうど今日は一日デスクワークの予定で、僕もこの問題について誰かと話をしたかったので、急遽Zoomで対話の場を設けることにした。中村さんと一緒に「NPO法人わがこと」をやっている、中学生のお子さんを持つ大美光代さんも都合がついたので、三人で昨日から心の中に浮かぶことなどを、少しずつ、声に出していった。その中で、僕の違和感を二人に説明をしながら、自分の中でも整理できたことを言語化してみたい。

まず、今回の決断は、医学的判断ではなく、政治的判断である、ということだ。(以下に書くことは2020年2月28日13時半のデータに基づく)。

感染の爆発的拡大を抑えたい、という、医学的根拠のみに基づく判断なら、そもそも学校のみを閉鎖するのは、おかしい。それよりも満員電車こそ、止めるべきだ。ライフラインに関わる、日常を維持するための最低限の職業以外の職業は二週間営業を辞めるか在宅勤務に切り替えるなどをして、感染拡大を防止する必要がある。でも、そういう決定はしていない。東京マラソンだって、参加者は縮小しても、実施はする。あれだって、応援する人も含めて、不特定多数の人が集まる場なのに、おかしい。さらに言えば、日本医師会の会長も「地域の感染状況などに応じて学校の臨時休校や春休みの前倒しを実施すること」を求めているが、全国一律の休校を求めてはいない。日本小児科学会も「現時点では、国内の小児の患者は稀で、成人の感染者からの伝播によるものですので、保育所、幼稚園、学校などへの通園、通学を制限する理由はありません。しかしながら、地域で小児の患者が発生した場合、またはそれが想定される場合には、一定期間、休園や休校になる可能性があります」と述べている。何より政府の感染症対策の専門家委員のひとりも、「専門家会議で議論した方針ではなく、感染症対策として適切かどうか一切相談なく、政治判断として決められたものだ。判断の理由を国民に説明すべきだ」と発言している。

つまり、これは医学的な理由などを勘案しつつも、政治家である首相が、政治的な価値判断をした上での、政治的決定である。

そのうえで、僕はこの価値判断に違和感を唱える。「ケアを軽んじてはいないか」と。子どものことを本当に大切に考えた上での決定なのだろうか、と。もし全国一律の休校の必要がある医学的根拠を持つなら、それをちゃんと国民に示し、納得するプロセスを形成する必要があるのではないか、と。それを示さず、空気を読んで要請に黙って従え、はおかしいのではないか、と。

本当に子どもを感染させたくないなら、子どもをケアする親も休業できるような財政措置も含めた対策を取るべきである。でも、その話は、現時点では出てこない。あくまでも、企業にも配慮を求める、という風潮である。この間の自粛や要請はどれも政府の命令ではないので、政府は責任を取らない、というスタンスである。

子どもは学校ではなく、外出も避け、家にいなさい。仕事を持つ親は満員電車に乗り続けなさい。子どもが小さかったり障害を持っていて、ケアする必要があるならば、専業主婦が面倒を見るか、共働きならどちらかが(多くの場合は妻が)面倒をみなさい。シングル家庭は、何とか自助努力で耐えしのぎなさい。学童とか開けるように要請するから、それで何とかしてね・・・。これって、ケアをあくまでも家庭内の自己責任にとどめ、ケア責任に関しては政府は積極的に関与しない、という姿勢を示している。

さらに言えば、経済活動を止めたくない、東京オリンピックを何とか成功させたい、その中でのコロナ対策のアピールとして、上記二つに抵触しないものとして、学校の臨時休校という「インパクトある決断」をしているようにも、思える。もちろん、経済活動が停滞を続け、日本社会が没落していくと、私たちの生活に直撃するし、それは困る。だが一方で、教育や子育てなどケアを必要とする子どもや、そのケアにあたる親や教師などケアをする人たちの大切にしているものを無視して、それをなぎ倒すかのように、突然、4日後からの臨時休校措置の要請をしてはいないか。それって、ケアすること・されることを、あまりに軽んじていないか。「どうせそのうち春休みなんだから、ついでに前倒しで春休みにしてしまえばいいじゃん」「子どもだって、休みの方が嬉しいじゃん」と。大美さんは「雑な判断だ」と言っていたが、僕も本当に雑な判断だと思う。子どもだって、卒業式とかクラス替えの前とか、年度の締めくくりの時期で、大切なイベントもある。そんな子ども達の内側の思いを、そこに関わる親や教師の思いを、バッサリと上から一律に切断してしまってよいのか。そのことに、政策判断者はどれだけ自覚的か。

既に先行している北海道では、実害も出ている。「帯広市の帯広厚生病院(651床)は27日、新型コロナウイルス感染拡大対策の学校休校の影響で病院職員の確保が難しくなったため、予約患者以外の一般外来診療を、28日から当面見合わせることを決めた。」

また、共働きで子育て中で、「ケアすること」に関する著作も出している渡邉琢さんは、「(小中高休学要請に対して)小さい子をもつ一家庭人、重度の障害者や患者を受けもつ一市民としてのお願い」という文章を出している。どちらも、一斉休校措置にすることで、ケア労働従事者の家庭にしわ寄せがいったり、ケア労働者が休業することで、医療や介護などのケア現場も大混乱に陥る、ということを述べている。

繰り返し、書く。ケアを軽んじてはいないか。

経済活動を続けるのも大切だし、オリンピックが日本で開かれるのも大切だ。でも、ケアも、それと同じくらい大切だ。どっちかが先で、どっちかが後、ではないはずだ。なのに、首相は経済活動やオリンピック開催に向けての方策を優先させて、対外的にも対策をアピールできる学校閉鎖は要請するけど、その間の子どものケア体制や、ケアが必要な人支える親への支援も含めた、ケアすること・されること、は「自己責任で何とかしてね」と優先順位を下げているようにしか、僕には思えない。

ここで、現首相の個人的な資質云々の問題を言っている訳ではない、ということも、宣言しておく。与野党関係なく、どの政党のどの政治家であっても、経済活動だけを重視し、ケアは家庭で何とかしてね、と切り捨てる政治家は、アカンと僕は思う。

僕は、これまで、政治の問題は、このブログではあまり扱ってこなった。だが、一人の親として、今回の価値判断は納得出来ない。そして、与野党問わず、全ての政治家が、経済活動だけでなく、ケアする・ケアされる、ことの重要性も認識した上で、そこに十分に配慮した政策判断を行ってほしいと思う。それは、災害時や非常事態のときこそ、より適切に配慮してほしいと思う。そして、そういう事は、心の中のモヤモヤとしてしまっておかずに、「へんだ、おかしい」と口に出す必要もあると思う。

子どもや親の気持ちが、政治決定の中で押し殺されるのは、アカンと思う。子どもや親、教員が自分自身の気持ちを飲み込んで、「しゃあないよね」とうな垂れながら従うのも、違うと思う。医学的な追加情報が加わり、判断基準が変われば、柔軟に対応した方が良い。でも、一方で、暴力的とも言える全国一律の一斉休校はなんかへんだ、おかしい、「いま・ここ」の暮らしも大切にしたい、と口にしても良いと思う。その思いまで、自粛や忖度すべきではない。

そう思ったので、言語化してみた。29日に行われるという首相の説明も、上記の観点から、しっかり伺おうと思っている。

あと、僕は今回Zoomでオンライン上で中村さん、大美さんと、お互いのモヤモヤを出し合うことで、ずいぶん整理されたし、気分的にも楽になった。それは、お二人も同じようだった。こういう時こそ、モヤモヤや違和感は、押し込めてしまわずに、対話をしたり、つぶやいたり、書いてみたりして、ちゃんと「モヤモヤしている」「違和感がある」と表明しておいた方が良いと思う。政策判断をする人々にも、そんな声がある、と伝えるためにも。それ以前に、なによりも、自分自身の「いま・ここ」の心配事や違和感を、そのものとして大切に尊重するためにも。

センシティブ、を捉え直す

今年初めてのブログである。今日は立春、小春日和のように姫路は暖かく、この間、汗だくになっていたタートルネックを三本、洗濯も出来た。

1月はバタバタしていて、何も書けなかった。久しぶりに原稿を二本書き下ろしていたから、というのが前半で、その後、昨日までの冬の土用期間(1月18日~2月3日)に家族内で風邪を移し合っていた、というのが大きい。子ども→妻→僕→妻ときて、また僕が先週末から風邪を引いていた。子どもが産まれて、本当にしょっちゅう風邪をひく。

で、僕は風邪を引くたびに「なんて弱っちいのだろう」と嘆いていた。でも、そうやって風邪を引く=弱い=ダメなこと、と決めつける、想像の連鎖の束そのものが、僕自身を束縛している「強さへの憧れ」なのではないか、と、やっと気づき始めた。

いつも重要な指摘を投げかけてくださる深尾葉子先生と対話している時に、この話題を嘆きながら話した時に、「風邪をひける、って、それだけセンシティブな能力があることでは?」と問いかけられた事に端を発する。

確かに、見かけによらず!?僕はセンシティブである。小説や、ドラマとか映画には変に感情移入過多となり、主人公が恥ずかしい思いをするシーンなど、先が読めてしまって「見ていられない」ので、テレビを消し本を閉じてしまうことも何度もあった。小さい頃は冷たい牛乳を飲むと一発でおなかを壊し、でも親に「ほんと、すぐにおなか壊すねえ」と言われるのが嫌で、夜中にこっそり正露丸を飲んでいたこともある。僕にとって、センシティブである事は、打ち消しがたい自分自身の一つの特性であるが、それはネガティブなもの、否定すべきもの、克己すべき何か、のように思っていた。でもそう簡単に克己できないから、小説やドラマ、映画は見ないようにしていたし、冷たいものは飲まないようにして、風邪だけは避けられないので、風邪を引くたびに「弱っちい」と嘆いていた。

つまり、打ち消しようのない自分の特性を、否定的に捉えていた。

でも、深尾先生に「センシティブな能力」と言われて、はっと気付いた。なるほど、そういう捉え返しもあるのか、と。そう言われると、気づき始めた。ずいぶんと長い間、この「能力」に必死になって蓋をしてきたよなぁ、と。

そもそもドラマや映画、小説を封印したのは、「受験勉強の弊害になるから」。受験勉強あるある話だけれど、僕は高校くらいから本好きになると共に、受験勉強が本当に嫌になり、入った進学校でどんどん成績順位が低下していったのだけれど、試験前ほど死ぬほど小説に没頭できた。パール・バックの大地とか、試験前日の雪降る中、続きが読みたくて、チャリで本屋を探し回ったものである。で、そういう豊かなセンシティビティや感受性を育てたら良かったのに、それは「非効率だ」と蓋をして、読まないようにしていた。ただ、例外はあって、村上春樹は大学時代からずっと読んでいたけど、博論を書く時に「これでは書けなくなる」と一度全部捨ててしまい、博論書いた後にまた古本屋でコツコツ探し求める、という阿呆な事もしていた。

で、いま何故にその蓋を取ろうとしているのか。それは、子どもの存在が大きい。

3歳になった娘は、感受性の塊で絶賛自己主張期(=という名の、またの名をイヤイヤ期)。楽しいことは全力で楽しいと表現し、嫌なことは全力でイヤーと拒否をする。怒られたり納得出来ないと、大粒の涙をポロポロ流す。そんな娘と日々を過ごしていると、この感受性の豊かさに驚かされるし、それと共に、僕の中にも、こういう感受性の源のようなものはあったし、枯渇もしていないよなぁ、と思い出すのである。

さらに、強さへの憧れとは、マッチョイズムとつながるだけでなく、受験勉強以来染みついた、偏差値の序列社会への過剰適応の内面化なのだとも、ひしひし思い至る。僕自身がそうやって他者比較の価値基準を自分の中にインプリンティングし、他者を見る時も、自分自身を振り返る時も、そうやって査定していた。くだらない話を書くが、「あの人は同年齢なのにこれだけ業績を出している(本が売れている、賞を取っている、社会的評価が高い・・・)。それに比べて僕は・・・」という「比較の牢獄」に自分自身が陥っていた。いや、今もまだ、このラットレース的心性を内面に抱えて、身もだえする時がある。

でも、娘には、まだそれがない。だから、自由だし、溌剌としている。もちろん、社会的存在になる、ということは、多かれ少なかれ、このような他者比較の牢獄から完全に自由になることは不可能なのはわかる。でも、少なくとも、今の娘が持つような、他者比較をすることなく、自分自身の感受性の豊かさを全面に出すような、そんな心性を、僕ももうちょっとだけでも取り戻したい。そう思い始めている。

すると、子育てをし始めて、前よりしょっちゅう風邪を引いて寝込む回数が増えたのだが、これも感受性を取り戻すための、大事な身体からのお知らせ、なのかもしれない。でも、その身体からのメッセージを無視して、頭でっかちを続け、脳や意思中心主義に閉じこもっていると、子どももそうやって比較の牢獄に追い込んでしまうことになりかねない。「他の子はもっと出来ているのだから」「ちゃんとしなさい」と。

それは、嫌だ。

そう思うから、娘を変えるのではなく、まず父が変わる必要がある。僕がまず、この比較の牢獄から抜け出せなくても、少なくともそれを意識化する必要がある。僕自身が、己の「強さへの憧れ」の歪みに気付いて、そこからちょっとは自由になりたい。そして、娘から感受性の豊かさ、感受性の表現の仕方をもう一度学んで、豊かな感受性を取り戻したい。

そう思うと、これは以前ブログに何度か書いた、caring withの論考の続きになりそうな気がしている。実際、子育てやケア関係で、書きたいことは沢山ある。でも、それは僕自身の男性性や、「強さへの憧れ幻想」との関係をひもとく中で、明らかになってきそうな何か、なのかもしれないと、今、思い始めている。

(たぶん、つづく)