「思い通り」を手放せるか(caring withその3)

朝、出かける直前に、妻が叫んでいた。声の方向に飛んでいくと、娘がカーペットに大をお漏らししていた。妻の叫び声にびっくりして泣いている娘を抱えて、シャワーで娘の身体を洗う。その後、あたふた準備をして出かけるも、パソコンを忘れて一度家に帰り、なんとか次のバスでギリギリ1限の授業に間に合うも、別のものを忘れてきたことに職場で気づき、唖然とする。子供が産まれる前、こんなことは無かったのに・・・。

子どもが産まれてから、思いも寄らぬポカミスや間違い、失敗、出来ないことがやたらめったら増えた。子どもにもらって風邪もしょっちゅう引くし、携帯電話を人生で初めて落としたのは、子どもが産まれた年の秋に出かけた新潟講演の帰りの新幹線の中。自分でそれまで自己管理が割と出来ている方だと思っていたが、メールの返信も滞りがちになり、こなせる仕事量も減り、家事育児に忙殺されるうちに、目一杯の日々である。オッサンになって、確かに体力は落ちているのだが、その一方、やんちゃな娘さんは、どんどん体力がついていく。

真実は細部に宿る。この問題は、個人のワークライフバランスの問題に留まらない、と僕は考える。自分一人で自己完結できる・すべきだ、という今の社会で称揚される働き方、生き方では、子どもと共にある生活(=つまり、caring withの生き方)は達成できないのだと思う。それは一体どういうことか。それは、これまでの僕の生き方・考え方が「思い通りになる」という発想に基づいていたからだ、という補助線を引いてみると、わかりやすい。

「思い通りになる」。これは、一昔前にホリエモンが言っていた「想定内」と同じである。徹底的に考えて、自己管理して、リスクヘッジをして、想定の範囲を広げていき、トラブルシューティングして問題があっても、すぐにカバーできるようになる。そういう生き方や考え方が、称揚されてきた。本屋のビジネス書や自己啓発本のコーナーに行けば、そんな本で溢れている。僕も教員になった一四年前に、そういう本を読みあさって、「生産性向上」を目指した時期もある。そのおかげで、それなりに「こなせる」幅も増えた。なので、そういう本の説くことも、決して無駄では無い、とは知っている。

でも、子どもという存在は、決して「想定内」「思い通り」にはならない!!!!!!!!!

親の僕たちが急いでいる時に限って、子どもは食事をひっくり返し、ぐずり、服を汚し、「おかあちゃん、抱っこ」とずーっと泣き叫ぶ。こちらが順序立てて考えていた、これからの予定ややり方を全て吹っ飛ばす。でも、「黙っていなさい」「しっかりしなさい」「泣くのをやめなさい」と言ったところで、本人が一番困惑しているので、その注意には意味がない。こちらが出来ることは、目の前の状況を何とかカバーしながら、子どもをなだめながら、その上で出来ることはし、諦めたり取りやめたり延期にしたりする。郵便局やホームセンターに行く用事は無理なので、とりあえず晩ご飯のおかずだけ買って、おしまいにしよう、とか、子どもがぐずらないうちに最低限のことだけして帰ろうとか、目の前の子どもが受容可能な範囲内にこちらの予定・都合を縮減し、対応する。子どもとともに生きる(caring with)を実現しようと思えば、まずは子どもの論理を知り、子どもの都合と折り合いのつく範囲内に縮減する・諦める、というプロセスが必要になる。

「想定内」「思い通り」という時、都合や折り合いを付ける相手とは、自分自身であった。だからこそ、自分自身の効率性を高めたり、可動範囲を広め、作動能力を高めることで、諦めなくても、縮減しなくても、「できる」範囲が増えていく。そして、その成果としての「業績」が評価され、それに対する対価が払われ、そのような「できる」ことの多い人が評価称揚される社会が形成されていく。だが、子どもの登場により、この「できる」という「想定内」は、文字通りなぎ倒されていく。できるはずのことが、全然、できない・させてもらえない、のだ。

しかし、この「できるはずのことが、全然、できない・させてもらえない」というのは、僕は子どもと共に生きるまで、あまり経験したことの無いことだった。逆に言えば、残念ながら性別役割分業が未だに働き方のデフォルトで、男性中心主義の働き方が「当たり前」のまま残っている日本社会において、家事や育児を誰かに押しつけることが可能だからこそ、「想定内」の「思い通り」という「できる」幅が増えていくのである。裏を返せば、ケアする家族がいる場合には、誰かに「できるはずのことが、全然、できない・させてもらえない」という役割を押しつけることによって、「想定内」や「思い通り」が可能になるのである。それを指して、フェミニズムは「不払い労働」と言い、「家事労働にも賃金を」と主張してきた。

ただ、賃金をもらっても、「思い通りにならない」ことには、変わりない。子どもは、僕の思い通りにはならない。自分以外の他者は、そもそも思い通りに出来ない。いや、自分自身だって、思い通りに出来る部分は、本来は限定的である。にもかかわらず、僕の脳みそは「思い通りに出来る」「想定内」思考で渦巻いていた。だからこそ、思い通りにならないときは、いらだち、他人のせいにしようとしていた。でも、トイレ作法を現在学ぶ途中の娘さんに、ここでもらすおまえが悪い、と責任転嫁しても、何も始まらない。妻も、初めてのカーペットでのおもらしに動転するのも、よくわかる。誰のせいにもできない。うーん・・・。そう極まった時に、僕はいかにこれまで他人のせいにして、「想定内」「思い通り」を求めて生きてきたのか、と気づかされる。そして、実はこの「想定内」の世界で生きることとは、他者との本来的な関わりのない世界であり、固定的で、ある種死んだような世界観なのである。そう、「思い通り」を追い求める世界観とは、実は他者との本来的な関わりのない、モノローグ的な「独り相撲」の世界観なのである。

ケアを誰かに押しつけることなく、一人で抱え込むこともなく、ケアする・される、の非対称的関係性を超えて、共にある世界がcaring withとするならば、その世界観とは、「想定内」の「思い通り」の世界観を放棄し、その外に出ることである。そうやって、自分だけのモノローグ的自己完結の世界の外に出るからこそ、他者の他者性と出会えるダイアローグが始まる。思い通りにならない娘さんを前にして、大変面倒くさいけど、にもかかわらずかわいいと思え、その娘のために、他のことの優先順位を後回しにして、とにかく第一義的に関わる。それで、仕事の取りこぼしがあっても、娘や妻との「いま・ここ」の時間を、そのものとして味わえたら、これ以上に無い喜びなのである。それは、まさに「生の充溢」とも言える瞬間である。そういう唯一無二の何かを、「思い通りにならない」「想定外」だからと切り捨てるのは、なんと無機質で、面白くなく、モノトーンな世界観なのだろう、と思う。

「俺は仕事で忙しいから」「子育ては妻の仕事だから」と、妻に押しつける夫は、妻にケア役割を押しつけることにより、「想定内」の「思い通り」の世界に留まる。そして、押しつけられた側は、「想定外」の世界に放り込まれる。でも、不承不承かもしれないけれど、想定外の世界に飛び込むことで、結果的に、それまでの「想定内」の世界が、自己完結的なモノローグの世界だった、と気づけるのである。世間の能力主義的評価や、金銭的対価も、残念ながらその評価軸に合わせることを求める、という意味で、自己完結的世界観である。その外にでると、これまでの評価軸を捨てなければならないが、でも、その外側に、豊饒なcaring withの「生の充溢」的世界が拡がっている。これを、そのものとして、味わうことが出来るかどうか。それは、これまでの価値前提をひっくり返すことができるかどうか、にかかっている。(たぶん、つづく)

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。