オランダの子育ての本を2冊読んだ。ワークライフバランスの違いについて学ぼうと思ったのだが、読んでいて、生き方や価値前提の違いなのだ、と思い始めている。
②『オランダ流ワーク・ライフ・バランス「人生のラッシュアワー」を生き抜く人々の技法』
①はオランダに移住した、アメリカ人とイギリス人のママが書いた本。②は日本人のママ研究者が、オランダでのフィールドワークやオランダ人へのインタビューをする中でまとめた本。②を読んでいて、もっとオランダの子育てのことを知りたいな、と思っていたら①に出会った。どちらとも、すごく良い本だった。
オランダは、同一賃金同一労働が徹底している。また週あたりの労働時間が短く、週4日勤務の人が男性も多い、というのはネットでも読んでいた。それらがなにを意味するのか、は2冊の本を読んで、よくわかった。夫も妻も、生産性至上主義に、それほど染まっていないのである。
②の本に出てくるママのインタビューで興味深いフレーズがあった。「ここはスウェーデンではないのだから」(大意)。スウェーデンでは、子どもは1歳になったら保育所に預けることが権利として認められ、国も義務として必ず受け容れなければならない。だが、オランダのママは、1歳で週5日も保育所に「入れたくない」という。小さいうちは大変だから、週3日の保育園でも十分頑張っている。後の二日は、パパかママのどちらかがみればよい。そのため、夫も週4日勤務にして、土日以外のあと1日を「パパの日」として子どもと一緒にいる、という。ただ、銀行員とか医者とか、現地のエリートは、週4日労働の代わりに、働く日は9時間とか10時間働いている人もいる。一方女性は、子どもが小さい間は週3日勤務の人が割と多い、そんなことが②に書かれていた。
一方、①の本から学んだのは、イギリス人やアメリカ人との価値観の違いだった。著者二人はイギリスやアメリカの弱肉競争的価値観の中で育ち、ある程度勝ち抜いてきた。だから、子育てや教育においても、「完璧なママでなければ」とか、「子どもに最善の教育をしたい」という完璧願望を持っていた。でもそれって他者と比較し、勝ち負けを競うやり方であり、何より母親自身を「比較の牢獄」の中に追い込む発想。そういう比較の牢獄から自由になったオランダの子どもは、こういう風に育つと著者達は言う。(p4-5)
・オランダの赤ちゃんはよく眠る
・オランダのこどもは小学校での宿題がほとんどない
・オランダの子どもは自分たちの話をきちんと聞いてもらえる
・オランダの子どもは保護者と一緒でなくても外でのびのびと遊べる
・オランダの子どもは家族と一緒に定期的に食事をとっている
・オランダの子どもは両親と過ごす時間がたくさんある
・オランダのこどもはお古のおもちゃでも大喜びする。小さな幸せを感じるうことができる。
ここに書かれているのは、親子の関わり方の違いであり、そういう違いを生み出すのは、親の価値観の違いである。このオランダの実践の逆を書いたら、こんな風になる。
仕事での成果を第一義に考えすぎると、子どもと一緒にいる時間が減るし、話はゆっくり聞けないし、ご飯も別々の時間になる。その中で、稼ぎはあっても時間がないから、次々と新しいおもちゃを買い併せて埋め合わせたり、スマホやゲーム、テレビを育児マシーンとする。また、子どもも弱肉強食的な価値観で勝ち抜くために、宿題をさせ、よりよい学校に入れようと必死になる。子育ては楽しくない。
これは、イギリスやアメリカ、だけでなく、日本だって同じような構造だと思う。
一方、オランダに限らず、日本でも「仕事の成果を第一義に考えすぎる」という命題を外すことができれば、かなり色々変わりそうだ、ということもわかっている。でも、日本ではなかなか難しい。それは、同一賃金同一労働が徹底されていないからであり、非正規労働者の権利が保障されいないからであり、職場の働き方改革がなされていないからである、という理由は沢山思いつく。確かに、それらも勿論大きな要因だと思う。でも、その一方で、僕たちの「労働」への認識とか、価値前提の有り様にも、大きな比重があるように思う。
僕は、子どもが産まれるまでは、強迫観念的に、というか、仕事依存症的に、働いていたと思う。博論の公聴会で、論文や学会発表の数の少なさを批判されて以来、”publish or perish”を自分の中で言い聞かせてきた。「書かないなら、立ち去れ」という恐ろしい警句は、アメリカのアカデミズムの世界で言われている業績競争の常套文句である。2005年に大学教員になれた後、必死に勉強し、あちこちに調査に出かけ、書きまくってきた。あれから14年で単著3冊に編著も数冊、論文やその他の文章も沢山、書いてきた。講演も研修も、しまくっていた。前任校では、全国的に有名な政治学者の次に、外での仕事が多かったと思う。そうやって、あちこちから呼んでもらえることを、密かに誇りに思っていた。
でも、そんな働き方をするから、子どもができなかった。長い間不妊治療を続けていたが、今なら夫の多忙すぎる生活や仕事のストレスが不妊の大きな要因であったとわかる。そして、子どもが産まれてみると、ちゃんと子どもと向き合おうとするなら、こんな仕事詰めではとても無理である事もわかった。
だから、仕事を大幅に減らした。外の仕事は、かなり断った。出張は原則日帰り、長くても1泊2日まで。懇親会はほとんどいかなくなった。仕事が終わるとあっという間に家に帰るようになった。「18時までに家に帰って子どもを風呂に入れ、夕飯を作る」という黄金律を守るためなら、タクシーや新幹線も、躊躇なく使うようになった。土日の休みは、何とか確保しようと思うようになった。平日の朝か夕方に、子どもと近所の公園に散歩に行く日も、なるべくつくり出そうとしている・・・
実につまらない卑小なことを書いていると思われるかもしれない。でも、僕にとって、こういう「仕事における、しないこと」を増やすことは、それまでの価値前提を覆すことであり、身を切るような価値転換だったのだ。それまでは、断ることがへたくそで、何でも引き受けていた。自分が必要とされているなら、役に立てるなら、仕事を通じて学べるなら、と、断らなかった。でも、そういう働き方は、24時間の見守りや関わり(=ケア)を必要とする子どもの前では、全く通用しないやりかただった。
親しく議論させて頂いている深尾葉子先生は、そのことに関連して、「プライオリティ異常」という視点を教えてくださった。優先順位を間違えることで、歪みや偏りが生じる。真っ当な暮らしを続けたければ、優先順位に着目し、その異常な優先順位をただすことが大切だ、と。
子どもが産まれてからの2年半でしてきたことといえば、僕の中の仕事至上主義という価値前提を、何とか優先順位から引きずりおろすことだった。そして、それは全く容易なことではなかった。そして、この価値前提を見直す中で、生産性至上主義という、僕が信念体系の一部として空気のように受け容れていたものが、ぐらぐらと揺らぎ始めた。(たぶん、つづく)