僕の仕事とは・・・

朝から研究室でスルメをまとめる作業をしていて、ちょっと頭を切り換えたかったので、ネットでふらふらと内田樹さんのHPにたどり着く。内田さんの文章は、池田晶子さんの文章と共に、僕が一番好きな文章の一つだ。彼のブログを読みながら、なるほどなぁ、と目に止まった部分があった。

『メディアの仕事は、世界にうずまくカオティックでアモルファスな出来事の渦の中に手を突っ込んで、ひとつながりの「情報単位」を掬い上げて、それをひとつの「文脈」の中に並べて、読者が携行したり、引用したり、批判したりしやすいように「パッケージ」して差し出すことである。』
http://blog.tatsuru.com/archives/2005_06.phpより)

まさにその通り、いつも端的にズバッと射抜かれるので「ほんと凄いよあぁ」と憧れてしまう。そして、これはメディアの仕事、に限らないんじゃないか、と考えている。僕自身、自分がこだわる分野について、出来る限り「パッケージ」して多くの人々に差し出したい、と願っている。そして、その差し出した内容が、少しでも多くの人の心に届けば、と願っている自分がいる。これは、僕の師匠がジャーナリストであった事に多分に関係していると思うけど、「論文でも、読まれなかったら意味がない!」と思っている。(残念ながら、まだ意味がない!レベルを超えられていないのだけれど・・・)

こんな事を書くと研究者としても失格なのだけれど、自分の中で「論文って何の為にあるのだ?」という疑問が、大学院時代からずっとこびり付いたように、心の底に溜まっていた。それは、ある時期少々論文(に限らず文章全体)に対してトラウマちっくになっていた時代からの残滓なのだが、根本的に、自分の中で、論文に対する腹づもりが定まっていなかったことにも起因すると思う。でも、常勤の職を得て、山梨でボチボチ考える内に、少しずつ腹が固まってきた。それは、単純明快、「僕は僕らしい文章しか書けないし、僕らしい文章を書けばいいんだ」ということ。自分が考えてきたこと、現場で実践していること、その試行錯誤を含めて、自分が考える文脈で切り取り、自分らしいパッケージで提供できればいい、それが論文というメディアなのか、ブログやスルメなのか、あるいは他の媒体なのか、で勿論TPOは考えるけれど、基本的にオドオドせずに、自分らしく書いていけばいいや、そう割り切ることができはじめた。

よいパッケージならば、ジャーナリストの作品でも、学者の論文でも、人の心を打つ。ありがたいことに、その両者の傑作を見る機会が、その作者から直に教わる機会があった。ただ、ジャーナリストの弟子で研究者の立場に立ち、どういうスタンスで、どちらの側から臨めばいいのだろう・・・などと考え込んでいる内に、どう立ってよいのかわからなくなり、足下がふらついていた。どう立ってよいのか、なんて、考える前に、自分が伝えたいことを書き続ければ良いのだ、スタイルやスタンスは、その中から立ち現れてくるのだから。最近そう思い始めている。自分の仕事のジャンルやよって立つ学問は未だにわからないけれど、とにかく気になること、大事だと思うこと、まとめなければならないと感じること、をちゃんと考察して、パッケージにしていく作業、それが僕の仕事だ、という腹がくくれてきた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。