己が業、とは?

あなたのこの書き物には、この視点が欠落しているのではないか?

研究会の席で、主催された方から本質的な問いをいただいた。
というか、僕が発表を終え、その方の顔を見た瞬間、この指摘を受けることが直感的にわかってしまった。そう、まさにその点が足りないし、それがなければ本質的欠陥なのです・・・イテテ。そして、その方は口には出して仰らなかったが、メタメッセージとして次のようなご助言も賜った。「タケバタ君、こだわるべきところでこだわらず、肩肘張らなくていいところで力んでない? ものの本質を見誤っちゃあ、おしまいだよ!」 その言外のメッセージに、自分の至らなさを深く恥じ入るとともに、でもどこかでちょっと楽になった自分がいた。

ここ数年、仕事が加速度的に忙しくなり、でも見えてくるもの・出来うるものも少しずつ拡大する中で、変に肩肘を張っている自分がいた。端的に言えば何にでも口を挟む「やかましい」自分がいた。それはそれで一つのキャラだ、と言われたらそれまでなのだが、でもその一方、この「やかましさ」の中にあるある種の虚勢や力みに対するやんわりとした批判も仲間から寄せられていた。また、自分自身でもそういう作為的な「やかましさ」への疑問符や疚しさも、ここしばらく自分の中に去来していた。

僕は何に向かって、どうしようというのだろう? なぜそんなに力んで、わあわあ言っているのだろう? もっと焦らず、自分が本当に思っていることだけを、話したいスピード・声音で話せばいいじゃないか。気張るなよ。そう思い始めていた矢先の今日だったので、当惑や落ち込みもあるが、むしろ憑きものが取れた気分だったのだ。あんまりあれこれしゃしゃり出ずに、「己が業にいそしみ」なさいよ、と。では、僕にとっての「己が業」とは何なのだろうか?

ここのところは、まだきちんと整理しきれていない。だが、明らかに言えることは、今自分の中で中途半端な正義感や使命感から背負っている(つもりの)もののうち、ちゃんと返すべきところがあるものについては、きっちりその役割と責任をお返しすべきである、ということだ。また、僕ではない他の立場の方が本来の意味で責任をとるべきなのに、もし現状がそうなっていないなら、そうなるような環境整備をすることこそが、僕自身の「己が業」である。まかり間違っても、「○○の代わりに」とか、「僕がやらずに誰がやるだろうか」といった不遜な気負いは、本来責任をとるべき役割の方々に対する越権行為であり、冒とくでもある。この部分をわきまえずに、いらん一歩を踏み込むことはまさに、百害あって一理なし、なのだ。

ということは、研究者の立場にもあるタケバタが当座すべきことは、(本来不必要なのに)わざわざいろんなものを「背負い込む」ことではなく、責務ある人がその責務に気づいていないならそれをお知らせし、果たしたい責任を十全に果たせる環境にない人がいれば、その環境構築のお手伝いをし、果たさなくてもよい人が越権行為としてしゃしゃり出ているの目撃したならば、その退場を勧告する。そういう産婆さんの役割なのだろう。これなら、僕にでも出来そうだ。

今日の指摘は、正直心にグサリとささった。今でもイテテ、というヒリヒリ感が残っている。でもこういう本気の投げかけをしてもらえることは、年をとればとるほど、なくなっていく。ならば、この痛みを気づきの一歩、変革への一歩とするためにも、師走から年明けにかけて、来年の構想を練るなかでじっくりと噛みしめていこう、と思う。返すべきところに返しなさい。これが来年のキーワードになるかも、だ。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。