なるようにしか

ここしばらく、何をどう書けばいいのか、逡巡していた。

いろいろな報告書の締め切りが今月末、結構重なっている。こうなることは目に見えていたのだが、やはりギリギリで追い込まれている状態だ。でも、先月までの三ヶ月間は週に7コマの授業に自立支援法がらみの講演に、などとドタバタしていて、落ち着いてまとめる暇がなかったから、出来てなくても無理ない、という言い訳も出来ないことはない。でも、何はともあれ、締め切りが迫っている。そのため、一応書き出してみたのだが、どうも楽しくない。楽しくないから気乗りがしない。気乗りがしないので、ついついネットをフラフラ見ていて・・・と悪循環になりそうだったので、今日は思い切って「研究室デトックス」! 昨日の毒キノコパーティー以来、色々グログロしているものを出していこう、という戦略を、研究室に応用した。・・・なんて小難しい理屈は後付で、ようは部屋が汚かったのでお掃除したのであります、はい。

年末は実家ツアーに帰る予定だったので、とても掃除し切れなかった。で、松の内のあけた今日、一生懸命研究室のゴミと戦っておりました。様々なレジュメやいらん紙切れやら何だかんだと処分、しょぶん。そのうちにめっけもんの論文もいくつか発見し、こういう大掃除は大変効能がある、とご満足。こうやって体を動かしながら、さっき読んでいた本を思い出していた。

「私は戦前の人たちを書く場合でも、基本的には私がこの立場にいたらどうだろうと思わないと書けない。一冊目の『単一民族神話の起源』のあとがきに、一方的な書き方はしたくない、できるだけ追体験するようなかたちで書きたいと記したのですが、せめてそれが礼儀だと思うんです。そのこともあって、一貫してその人たちが置かれていた同時代的な文脈や制約は重視しているつもりです。」
(「対話の回路 小熊英二対談集」小熊英二、新曜社 p289)

彼の三部作は実はまだ読んでいないのだが、この対談集を読み始めて、密かに僕のマイブームになっている。小熊氏の対談のうまさ、は、対談相手の資料の徹底した読み込みと、自分の仮説を相手に何度も角度を変えながらぶつけていくおもしろさ、そして相手が巨匠であっても(というか網野善彦や上野千鶴子、村上龍などその世界の巨匠ぞろいだが)、相手の論拠やデータに基づいてズンズン奥深くまで切り込んでいく、その爽快感にあるような気がする。その対談集の中で垣間見られる小熊氏や対談相手の対象への迫り方を読んでいるうちに、何だかふっと思い始めたのだ。「僕だって、好きな分野を追いかけよう」と。

そう、ここ最近困惑していたのは、他者から要請される(と自分で勝手に予期している)中身と、自分が書いていて楽しくなる中身、が一致しなかったからだ。でもよく考えてみると、どのようなレベルで内容を求められても、自分がもっている材料では、自分が書けるようにしか書けない。この当たり前のことなのに、それでは「求められた問いへ答えていないのではないか?」と、未だ1:1対応の受験生的根性が抜けきらず、さりとて相手のストライクゾーンにはまる文章もそう簡単に書けそうになく、もだえていたのだ。そういう文章を書いたって、せっかくのデータが死んでしまう。なにより、そういうやり方をしていると、僕がこれまであちこちで聞かせていただいた、「当事者」の方々の「語り」を、ありふれた元からある枠組み、という「一方的」な文脈の中に小さく押さえこんでしまうことにつながりかねない。僕自身が聞かせていただいた様々な話を「追体験」とはいかないまでも、その話に基づきながら論を構築するためには、あんまり最初から「こう書かなくちゃ」なんていう制約のたが(=先入観)をはめ込まず、自分が面白いと感じた内容を、その背景をちゃんと分析しながら、書いていけばいいのだろうな。そう思い始めている。

もちろん小熊氏や彼の対談相手の方々のような筆力も構想力も僕にはない。でも、そうやって一つ一つのデータと真面目に向き合う中から、そんな正面突破からしか、何かは生まれてこないだろう、という予感は確信に変わりつつある。時間をかけて、丁寧に、これまで集めてきた情報をじっくり読み込みながら、書けることを書ける範囲で報告書にまとめるしかない。そんな実に当たり前の結論に達した。それが、昨日ある先生と話していた時に出た、「僕の論文執筆アプローチの不確かさ」の克服にもつながるかもしれない。確かにその先生に指摘されたように、僕自身、まだどういうアプローチで対象に迫っていくか、が決まり切っていない。それは、色々な方々のアドバイスやオーダー、あるいは先行研究などを多少なりともかじっているうちに、誰の何を信じていいのやらわからず「どつぼ」に陥っていたから、故の不確かさなのだと思う。でも、このままだと八方美人的論文になってしまいかねない。それは「つまんない」。

別に先行研究や他人のアドバイスをもう頼らない、というつもりは毛頭ない。だが、一方で、僕自身、これまで様々な現場で、いろんな方に自分が興味あるテーマについてたくさんのお話を伺い続けてきた。その中で、知らず知らずのうちに、自分の体内に羅針盤のようなものが、出来つつある。この自分の中のブリコラージュ的なものを信じて、それを熟成させながら、読み手にも理解してもらえるようなデータを使いながら、一歩一歩自分の辿った軌跡を文字に落とし込み、論理の整合性を丁寧に検証しながら、わかりやすい表現で説明していけばいい、そう思い始めた。というか、この羅針盤を無視して表層的に何かを論じても、相手に全く伝わらない、ということがようやくわかったのだ。まあ、関西弁でいうならば、僕の持っているものを最大限に出し切った後は、「なるようにしかならん」のである。大切なのは、まず自分の持っているものを出し切ること、だけだ。こういう境地に落ち着いたのも、お部屋をすっきりした効能であろう。えかった、えかった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。