接ぎ穂の仕方

 

ある制度なりシステムなりについて、その起源にまでさかのぼって否定すると、現在その制度やシステムにのっかっている人にとっては、自身の現在やアイデンティティそのものを否定されているようで、なかなか受け容れがたい。「○○はダメだ(オカシイ・・・)」と言ったところで、そのダメでオカシイと言われたシステムの内部で動いている人にとっては、ダメなのはシステムや制度だけでなく、それに従う自分自身も「ダメ」「オカシイ」と言われているような気がするからだ。

そう言われても、現存するシステムなり制度には、設立の要件があり、歴史的経緯があり、それなりの事情があって、現存する。それが、今の自身のスタンスから見てみると、決して喜ばしくなくとも、あるいは批判したくなっても、そうは言っても、様々な要因が重なって、それ以外の有り様が選ばれず、その要因が「選ばれた」上に、現存しているのだ。

その時、現存するシステム批判をすることは、批判する側の意図になくとも、結果としてそのシステムにのっかっている人々自体への批判へと繋がる、ということを忘れてはならない。そして、いったん「批判された」という気持ちを持った人は、簡単には「批判者」と認識した相手のコメントなり提言なりを受け容れるものではない。「私の意見(歴史、努力・・・)が否定された」と思った場合、否定された相手の意見は人間なかなか聞きにくいものなのだ。

じゃあどうしたらいいのか。最近実践してみて「使える」のは、とりあえず「これまで」の歴史的判断を留保することだ。「今までは、それなりの理由があって、この現状になっている」という、現状認識を持つこと。その上で、「今までは仕方ないとして、これからどうするか、その接ぎ穂の仕方が大切だ」と提言すること。具体的に言えば、「過去に遡っての批判なり総括なりはしない。でも、何らかの問題がある現状ならば、これからの戦略に関しては、反省に基づいて、今できうる可能性や、他の選択肢を積極的に探すべきだ」ということだ。これは、意外と多くの局面で「使える」発想である。そして、そういう議論の仕方だと、自分の対極的な立場に一見いると思える人とでも、議論が出来る。今後のあるべきソリューションについて、同じ立場から模索できる。

こういう「接ぎ穂の仕方」がわかってきたあたり、そろそろ僕も青二才から少しは大人になり始めたのかも知れない。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。