昨日買ったノートパソコンで初投稿してみている。
ようやくここまでこぎ着けたが、昨日からネットワーク関連の接続で右往左往し、今朝はコールセンターのお世話になった。ひとつひとつの問題を丹念に尋ね、目の前にはないはずの問題を、ユーザーとのやりとりの中から見事に紐解いていくコールセンターのプロはすごい。言葉はばか丁寧だが要領を得ない担当者もいる一方、今日対応してくれたバッファローの担当者は、クールかつ適切に紐解いてくれ、40分くらいかかったが、こんがらがった糸をほどいてみせ、無事に問題を解決してくださった。ありがたい限り。
このコールセンター担当者の力量如何で変わる、というのは、ソーシャルワーカーだって同じことがいえる。このワーカーの「力量」問題は、性格問題であり簡単に変えられない問題なのか、あるいは現任者教育に基づいてある程度可変的(スキルアップ可能)なものなのか、は議論の分かれるところなのだが、僕自身は後者に期待をかけ、今年から始まった科研調査もこのテーマで追いかけるつもりでいる。ただこの問題はまだ勉強不足なので、もう少しストックができたら、少しここでも考察したい。
さて、勉強不足、といえば、大先輩のとみたさんから、前回のブログにコメントをいただいた。とみたさんの含蓄深いコメントは直接お読み頂くとして、ひとことでいえば、「bataくん,勉強不足ですね」という先輩のご指摘は、本当にありがたい限り。その昔、母親に小言を言われるたびに、「うるさいなぁ」と反論していた僕に、ある日母が次のように語ったことを思い出す。「ひろし、大人になったらこうやって叱ってくれる人はいなくなるのだから、叱ってもらえるうちが花や、と思ってありがたく受け取らないと」。これはまさにその通りで、大人になると、しかも大学の教員なんていう「肩書き」がついてしまうと、なかなか指摘やコメントを受ける機会が減ってしまう。このスルメブログのコメントも、最近はバイアグラだのドラッグだのの海外からの攻撃コメントばかりで、いつも駆除に追われて、もうコメント欄を閉鎖しようかな、と思いかけていたので、先輩からのコメントはひたすらうれしい。しかもその内容が、僕の勉強不足を、叱るわけではなく、やんわりと諭してくださるのだから、なんともありがたい限りだ。11日からの海外出張の際にも、先輩に指摘された問題に関連して、何冊か鞄に入れていこう、と思う。
そう、あと10日で出張なのである。
8月の末になって、思い出したが、すっかり迫っている。
今回は先に書いた科研の調査で、オランダとスウェーデンの知的障害当事者のセルフ・アドボカシーグループに取材に出かけてくる。スウェーデンでは二年前にお世話になったグルンデン(このことは一部まとめている)という当事者会に、オランダではLFBという当事者会にお世話になる。どちらも昨年日本に来られ、セルフ・アドボカシーについて大変示唆に富む話をされていた。今、この二つのグループが中心になって、コーチングのアイデアを用いながら、当事者や支援者の価値の変容や新しい支援のあり方についての実践が積み重ねられている。支援者の価値の変容につながる現任者教育が今回の研究の柱なので、是非ともその考えをじっくり学びたい、と思い、オランダとスウェーデンに一週間づつ、滞在する予定。先に先輩に指摘された問題も、このセルフ・アドボカシーの問題も、まさに勉強の途上、であるので、何とか必死になってくらいつきたいな、というのが、情けないけど実態である。
で、勉強の途上、といえば、今日は山梨の作業療法士の皆さんの前で、これから講演することになっている。タイトルは「誰のための、何の『自立』?」という恐ろしいテーマ。これも勉強の途上なのだけれど、じっくりしつこく追いかけていきたいテーマなので、敢えてこのテーマで少しお話しさせて頂くことにした。その関連で、これも勉強の途上である作業療法関連の文献を読み返す。その中で、来週からの出張にも関連する、とある文章に出会う。
「スウェーデン独特の平等精神はあらゆるところに浸透している。平等への考え方や、社会システムが根本的に違うのだ。男女の性別差別がない平等ということだけではなく、誰にも依存しないで、すべての人が自立した上での平等なのである。それは、幼いころからの家庭教育、母親も父親も共働きで、家庭内のことは共同で行っていくという歴史的な環境が作り上げたものだろう。
手の空いている者が掃除をし、料理をし、子どもに本を読んで寝かしつける。学校では、家庭科や木工技術も男女の差別がなく、みんなが裁縫をし、料理をし、大工仕事をしている。ささいなことまでその意識が浸透しているスウェーデンでは、互いに貸し借りのない、依存しない自立を基本として、互いの位置を同等化しているといえる。だからこそ、議論する場合も上から下へと一方的な縦の関係ではなく、相互信頼の下に白熱した議論が繰り広げられる。それをもっとも象徴するのが、互いの名前を呼ぶときに、スウェーデンでは子どもから老人までファミリーネームでなくファーストネームを呼び合うことだろう。まだ若い女医のカーリンも、脳神経外科の偉い医者も、みんなファーストネームで呼ばれて親しまれている。」
(河本佳子著「スウェーデンの作業療法士」新評論、75-76)
スウェーデン在住の著者が日本で講演会をする、と聞き、樟葉のある病院の会議室(ローカルだなぁ)まで足を運んだのは、確か4年ほど前の院生時代のこと。スウェーデンで暮らした際は読むことがなかったのだが、今こうして講演前の「にわか勉強」で読み直して、目から鱗、の箇所がなんと多いことか。実際に現地に住んでみて感じた、でも日本語で表現しにくい、しかし根本的な価値観の違いのようなものを、スウェーデンに住んで長い著者がスパッと書いている。長く引用したのは、その部分をお伝えしたくって、長めの引用だったのだ。
先生と呼ばないでファーストネームで呼び合う関係、その背景にある、「互いに貸し借りのない、依存しない自立を基本として、互いの位置を同等化している」という「スウェーデン独特の平等精神」。これは支援という局面でも根深い差異を、日本とスウェーデンの間に与えているような気がしてならない。両国間で福祉はどっちが上、とかいう議論でない。ノーマライゼーションにしても、セルフ・アドボカシーにしても、作業療法にしても、その概念の背景に、この「同等化」や「平等精神」があって、そこから組み立てられたツールとして用いられるような気がしてならない。つまり、これらの考えは、モデルではなく、その背景にある哲学や人間観とセットになっているような気がしている。その一方、日本でノーマライゼーションやアドボカシーなどを語る際、肝心な人間観や哲学とは切り離された、ツールである技法として輸入されているような気がしてならない。それゆえに、日本の文化なり社会と切り離されたところで、これらのツールが「浮いている」ような気がしているのだ。
だからといって、スウェーデンの人間観や価値観万歳、といっているのではない。河本さんの指摘を借りれば、日本では「互いに貸し借り」をするなかで、「依存」しあう「自立を基本として、互いの位置を」差別化しているのかもしれない。でもそれが果たして悪いのか、といわれると、わからない。以前にも書いたが、日本では下からのノーマライゼーションというのが、現場で息づいている。それを支えているのが、「おたがいさん」という依存関係、のような気もしている。それは、山梨に暮らし始めて、すごく感じている。これを全否定するのではなく、日本らしさとして前提にしながら、一方で今なお起きている障害者への権利剥奪の現状と対抗する哲学なり人間観なり、それに基づいた政策をどう練り上げていけばいいのか。今度の国連総会で批准される予定の障害者権利条約にそって、国内法レベルの改正が議論される際、日本人になじみにくい「権利」だったり「差別禁止」という法理論をどう組み立てていくべきか。法学部に所属しながらその辺の勉強も「途上」だったりするタケバタにとって、まさに課題は山積である。ただ、今度の出張では、その辺を意識して、表面で見える動きの背後まで追いかけられたら、と思っている。
と書いていたら、あらもう12時。13時半には現地入りしなければならないので、今日も「途上」で終わってしまった。