昨日からすす払いな日々がスタート。まずは研究室からはじめる。
学生さんにアルバイトに来てもらって、とっとこ資料を整理・廃棄していく。とにかく紙だらけ。ゼミ生も「ほこりっぽい」という事で、窓を開けながらのお掃除。今日はまるで春のような陽気だったので、窓を開けていても、気持ちがいい暖かさ。机にうずたかく積まれている書類をサクサク「収納」「整理」「廃棄」の3種類に分け、処理していく。貴重な資料も、読まれなければただのゴミ。なので、とにかく即決で整理を進めていく。結果4時間ほどで、テーブルや机の上にぐっちゃに積まれていた資料のほとんどを整理する。後は、今日の午後、4年生を集めてゼミをした後、掃除機をかけて拭き掃除をしたら、研究室のお掃除はオシマイ。今朝からは、家のすす払いもはじめた。午前中はお風呂と格闘。
授業は先週で終わっていたのだが、月火と大阪出張だったので、すす払いがままならなかった。その代わり、ではないが、新大阪駅の本屋に立ち寄り、おもろそうな本をいくつか仕入れる。移動中に本を6,7冊買うと、結構荷物が重くて大変なのだが、やはり立ち読みして中身を選ぶので、アマゾンでは出会えないおもろい本が多い。
移動中に真っ先に読み終えたのが、「人はなぜ太るのか-肥満を科学する」(岡田正彦著、岩波新書)。疫学的データに基づき、実にまっとうな議論をしてくださるので、大変わかりやすく、説得力がある。肥満と死亡率の相関を示すデータからは、BMIは24程度がいいらしい。現在170センチで80キロから82キロのあたりをうろつくタケバタのBMIは28。170センチでBMI24だと70キロなので、10キロ(1割強)の減量が求められている。健康診断の結果も良くないし、これは本気で絞らねば。昨日は大学のすす払いで忙しく、ジムに行けなかったのだが、今日明日と「ジム納め」もして、こつこつ動いておこう。
で、大阪から帰りの「しなの」車中で読んでいたのが、出れば即買いする著者の一人である池田晶子氏の最新作。毎日中学生新聞に連載していた(廃刊になった、とは知らなかった!)、ご本人曰く「柔らかく、読みやすい」エッセーだが、中身の鋭さは、いつも通りである。
「自分が正しいと思っていることを、正しくないと他人に言われて腹が立つのは、それが、ただ自分で正しいと思っているだけのことだからだ。ただ自分で正しいと思っているだけで、本当に正しいことではないからだ。もしそれが本当に正しいことだとしたら、正しくないと言われて、どうして腹が立つのだろう。だって、それが本当に正しいことなら、他人にどう言われてもそれは正しいはずだからだ。だから、本当に正しいことと自分の感情とは、関係ないということだ。」(池田晶子「14歳の君へ」毎日新聞社p49)
相変わらず、簡単な日本語で、深遠な内容をズバッと書く池田さんである。いや、彼女の言い方でするならば、池田某という媒体を通じて出てくる「正しい言葉」である。「本当に正しいこと」と、「自分が正しいと思っていること」との違いを、見事に指し示している。このブログで何度も書いているが、他責的文法で“You are wrong!”と書いたり言ったりする裏側には、必ず“I am right.”という暗示がある。そして、他責的な言明をするとき、その大半が、「ただ自分で正しいと思っているだけで、本当に正しいことではない」場合が多い。だから、声高に相手の非をののしって、腹を立てるのである。「他人にどう言われてもそれは正しい」わけではないから、つまりは無意識に自分の言説の正しさの根拠がないことを知っているから、かんに障る、のである。そこから、池田某を通じて出てくる「正しい言葉」は次のようにも続ける。
「自分が思っているだけのものを『意見』と呼ぶとすると、君が持たなければならないのは『意見』ではなくて『考え』だ。『自分が思っているだけの自分の意見』ではなくて、『誰にとっても正しい本当の考え』だ。『考え』は、ただ自分が思っていることとは違う。自分が思っていることは本当に正しいか、誰にとっても正しいか、これを自分で考えてゆく、このことによってしか知られない。『思う』ことと『考える』ことは、全然違うことなんだ。君は、ただ自分が思っているだけのことを意見として言う前に、それが誰にとっても正しいかを、必ず考えなければならないんだ。」(同上、p49-50)
こう言われて、はたと気づく。僕が話すこと、書くことは、「意見」と「考え」のどちらが多いだろう。残念ながら、これまでは明らかに「意見」の方が多かった。論文などを書いていても、『誰にとっても正しい本当の考え』を論証し続けているつもりで、でもよくよく考えてみたら、『自分が思っているだけの自分の意見』しか書けていない場合が多かったのではないか。
たとえば入所施設や精神病院に対する「脱施設」論。僕自身は、入所施設の構造的問題について、論文でもたびたび取り上げ、書いてきた。それがどう構造的に問題か、について、論証し、「考え」たつもりだった。でもその一方で、未だに入所施設や精神病院は無くなる気配はない。欧米では脱施設が進んだ、と言っても、日本では施設を残す政策は、自立支援法になっても温存されている。こんなに入所施設型一括管理処遇は問題だ、と言っても、全然政策にまで届かない。入所施設や精神病院の改革につながらない。なんでだろう、と思っていたが、池田さんの言葉を借りるなら、僕の論調は、『誰にとっても正しい本当の考え』を論証し続けているつもりで、でもよくよく考えてみたら、『自分が思っているだけの自分の意見』しかかけていない場合そのものだったような気がするのだ。
この点に関しては、最近お気に入りの方法論についての一冊でも、同じような指摘がなされている。
「現実に起きている現象は、人間の心理というような要因も論理の一こまとして考えると、きちんと理由があって起きている。多くの要因が論理的に絡み合って、起こるべくして起きているのである。その現象が既存の理論では説明できないのなら、現実が間違っているのではなく、理論が不十分なのである。だから、そうした論理的な現実を詳細に追っていけば、論理的に意味のある仮説が生み出せる可能性は高い。」(伊丹敬之著「創造的論文の書き方」有斐閣 p152)
僕が入所施設や精神病院の問題を論じるとき、「現実が間違っている」という「意見」を書くことが多かった。でも、それは伊丹氏が言うように、「理論が不十分なのである」。自分の中で「考え」が練りきれないまま、「意見」という形で突っ走ってしまうので、世間から受け入れられないような気がする。
その際肝心なのは、声高に「意見」主張をするより、むしろ「論理的に意味のある仮説」を導き出すために、「論理的な現実を詳細に追ってい」くことなのだ。その中で、感情的な自分の意見を徹底的に疑い、排除し、「本当に正しいこと」(=考え)を少しずつ醸成させていく事なのだ。そして、意見を異にする相手側とも共通のプラットフォームとなりうる「理論」を少しずつ精緻にこしらえていくこと。これが、迂遠なようでも、日本の「脱施設」論に一番求められているような気がする。