求められる枠組み変換

 

大阪からの出張帰りの「ワイドビュー富士川」号の中で、再来週の授業で扱う予定のNGOに関する文献を読んでいて、心からうなずくフレーズに出会った。

「現在の発展途上国のように、好むと好まざるとに関わらず開発の言説が圧倒的な力を持つ社会においては、住民が社会的なプロセスに参加していくためには、開発の言説が『主体』と認めるようなある特殊な『主体』に自分自身を変えていかなければならない、そうしなければ参加できない、というような状況が生まれているのではないだろうか。その場合、参加を阻んでいるのは、援助する側が求めるような『主体』へと変わることを拒否している住民であろうか、それとも援助する側にとって都合のよい『主体』以外は認めようとしない私たちであろうか。」(定松栄一「開発援助か社会運動か」コモンズ、p249)

この定松氏の指摘は、発展途上国を障害者福祉、開発を自立、住民を障害者、と置き換えれば、障害者支援の文脈でも全く同じことが言える。

「現在の障害者福祉のように、好むと好まざるとに関わらず自立の言説が圧倒的な力を持つ社会においては、障害者が社会的なプロセスに参加していくためには、自立の言説が『主体』と認めるようなある特殊な『主体』に自分自身を変えていかなければならない、そうしなければ参加できない、というような状況が生まれているのではないだろうか。その場合、参加を阻んでいるのは、援助する側が求めるような『主体』へと変わることを拒否している障害者であろうか、それとも援助する側にとって都合のよい『主体』以外は認めようとしない私たちであろうか。」

「開発」や「自立」という言説、往々にしてこれらに絶対的な「善」という価値が付与されがちだ。だが、そもそもまずこの「開発」や「自立」という文言は、誰にとって、どのような意味での「開発」であり「自立」であるか、が問われなければならない。その意味で、厚生労働大臣の国会答弁は、いろいろなことを私たちに教えてくれる。

「自立というのは、身の回りのことをできるだけ人の手を借りないでやり遂げるということからスタートしているという姿を見てまいりまして、こういう格好で自立を進めていくんですよ、それで自立のレベルを上げていくんですよというようなことを見まして、自立というのは、本当に、まず身の回りのことを自分がやる、そして、その上に立って自分の意思でもっていろいろなことをやるようになっていく、そういうようなものがずっとスペクトルのように続いている話であるというふうに思いました。自立が、自分で所得を稼得するところまで完全にいくということしか自立じゃないというふうなことではない、一歩でも進むことを自立といって、それを支援していくことだというふうに、これは随分幅広く考えていった方が正しいのではないか。」
平成18年10月25日衆議院厚生委員会での柳沢厚生労働大臣の答弁

金融問題のスペシャリストであった柳沢氏も、残念ながら厚生労働行政には不勉強であられたのであろうか。尾辻元大臣の「自立とはタックスペイヤーになること」というのも強烈な自立観であったが、柳沢現大臣の「身の回りのことをできるだけ人の手を借りないでやり遂げるということからスタート」という発想も、すごい。尾辻元大臣は「経済的自立」、柳沢現大臣は「身辺的自立」を自立の第一歩と定義されておらるが、この定義をアプリオリなものとして、「ある特殊な『主体』に自分自身を変えていかなければならない、そうしなければ参加できない」と定義してしまうと、障害者の多くが、「参加できない」状況に構造的に追い込まれてしまう。なぜなら、障害のある人の少なからぬ数が、支援や援助が受けられない中では「経済的自立」や「身辺的自立」が不可能である場合が多いからだ。

「援助する側にとって都合のよい『主体』」を想起すれば、話はもう少し簡単になる。「経済的自立」や「身辺的自立」に向かって一生懸命頑張る「主体」を「都合のよい『主体』」と定義すると、「それ以外の自立があるのではないか」と全国大行動などをやっている障害者は、「援助する側が求めるような『主体』へと変わることを拒否している障害者」であり、やっかいな存在だ。

だが、障害者運動がずっと問い続けてきたのは、「人の助けを借りて15分かかって衣服を着、仕事にも出かけられる人間は、自分で衣服を着るのに2時間かかるため家にいるほかはない人間よりも自立している」という自立観(たとえば次のHPなど)であった。これは「自己決定・自己選択の自立」と言われるものである。「援助する側にとって都合のよい『主体』」であることがおかしいのではないか、と自分で考え、決める「主体」。こういう「都合のよい『主体』以外」の存在を認めない、ということは、ひいては援助側が、援助される側に対して支配的価値観が全面に出ているのではないか? 定松氏はきっとこう思っていたはずだし、障害者福祉の領域でも、まさに同じことが永遠の課題になっている。

国際協力分野では、参加型農村調査法(PRA:Participatory Rural Appraisal)が重視されている。これは、援助される側である「農民」が主体的にその地域問題の解決に向けて調査や行動を起こすのを支援する、というあり方である。自立支援法が「障害者」の主体的な「参加型」の地域問題解決法に至っているか? 残念ながらほど遠い現状にあるような気がする。障害者福祉のバックラッシュのような観がある現在、国際協力分野で言われている援助者主体から当事者主体への、needs basedからrights basedへのアプローチ転換は、まさに今、障害者福祉分野でも大切にされなければならない枠組み変換である。そんなことを考えながら、甲府に向かう夕暮れを過ごしていた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。