ステップを踏み続ける

 

前回のブログを「途方に暮れる」で終えたところ、今朝メールをひらけたら、

途方に暮れている場合やないでしょ!

と叱咤激励のメールを頂く。

コメントに書くつもりだけれど閉鎖されていたから、ということなので、お名前を出すと、知る人ぞ知る「とみたさん」である。めちゃくちゃお忙しい実践者&研究者であるにもかかわらず(この前お会いした折りには「自立支援法痩せ」で相当ほほがこけておられた)、私が危うい議論の方向性に行きかける時、ぴしっと襟を正すようなご指摘を頂くことほどありがたいことはない。そういえば、以前社会構築主義に関して書いた時も、「ある大きな落とし穴に陥ると思います」とご指摘頂いておりました。今、イアン・ハッキングの「何が社会的に構成されるのか」リンクはその書評)などでにわか勉強(泥縄式勉強?)をしておりまして、そのうち、その件についても返信しなくちゃなあ、と思っております。

さて、つっこみを頂いた点について、ご紹介しておこう。

「『よりまし論』を展開するにおいて、その『よりまし論』が、根元的な問いかけにつながっていくのかどうかが、研究者に問われるのではないでしょうか?
いまの社会に『社会的弱者』として、カテゴライズされ、レッテルをはられたときに、その枠組みから逃れようとするならば、いまの社会経済構造の中での社会的強者にならないといけないというのが、『よりまし論』とするならば、いまの社会に『社会的弱者』として、カテゴライズされ、レッテルをはられたときに、その枠組みから逃れようとせずに生きていく術を考えることができるというのが、『根源論』
『根源論』は、グローバリストでも人権派でもないような気がします
『よりまし論』にたつのであれば、それはグローバリストでも人権派でもたいした違いではないですよね。
でも、地域の安全な生活を守るというみんなが望むことを、排除論でやるのか、それともインクルージョンでやるのかは、根本的に違うように思いますが・・・。
途方にくれてないで、もう少し、議論と思考を楽しんでくださいな」

はい、すいません。
どこから踏み出せばよいのか、という入り口でとまどっていた私を、ポンと一押ししてくださった発言だと受け止め、少し考えてみております。

「その『よりまし論』が、根元的な問いかけにつながっていくのかどうかが、研究者に問われるのではないでしょうか?」という問いかけに、深く頷くタケバタ。そう、私自身のスタンスとして、「よりまし論」にルーツを持たない抽象的議論で生きていくことだけは、絶対したくない。現場や運動に疲れ果てて、「よりまし論」と結びつかない「観念の遊び」状態に陥っておられるご様子の方々をみるにつけ、それだけは絶対にしたくない、と思っている。ちなみに、だからといって、本質的(抽象的)議論が意味がない、と言っているのでもない。「よりまし論」と「根元的な問いかけ」をつなげて本質的議論をされている方も、どの分野でもおられる。ただ、その両者の「つながり」を意識せず(というか現実に立脚せずに)、本質的「っぽい」議論を大上段に構えている文章に出会うと、何だかなぁ、と脱力感を覚えてしまう。

横道にそれたので、元に戻そう。
私の立脚点は常に「よりまし論」にありながら、でもパワーゲームの「ぶんどり合い」の枠組みではない何かへの「枠組みの掛け替え」にどう迫っていけるか、それを通じて「よりまし論」をどう書き換えられるか、である。精神病院のことをしつこく追いかけていて思うのは、現在も人間らしい暮らしの前提が否定されている病棟内の人がいて、精神病院より少しだけ「よりまし」なものとして、退院支援施設構想が代替案として示されている現状に対する憂いというか、そりゃないよなぁ、という憤りが常に立脚点にある。私は、この構想は、あまりにもご本人の諦めさせれた夢や希望、隔離収容の何十年間という重い現実への反省のない、cost-effective一辺倒の、ひどい「よりまし論」だと思う。そして、それよりましな「よりまし論」もあるよ、と大阪の退院促進事のことなど触れながら、あれこれ書いたりもしている。

ただ、「よりまし論」の議論に終始していては、構造的に勝ち負け論の枠組みから逃れられず、いつまでたっても「負け続ける」というのは、実につまらんよなぁ、と思い始めている。ウチダ氏の指摘も、結局のところ、そのパワーゲームの論理内で「ぶんどり合戦」に無批判に参加している限りにおいて、グローバリストも人権派も一緒だよ、ということなのだ。ゲームの対戦相手への批判はしても、そのゲームの枠組みそのものへの批判ではない限り、結局のところ、取り分の大小で一喜一憂するに留まり、勝ち負けでない他の何か、へ通じる道が開かれていない、という批判として僕は受け止めている。

「いまの社会に『社会的弱者』として、カテゴライズされ、レッテルをはられたときに、その枠組みから逃れようとせずに生きていく術を考えることができるというのが、『根源論』」というとみたさんの切り口は、本当に鋭く、そうだよなぁ、とこれにも深く頷く。スウェーデンに住んでいた時から考えている、ノーマライゼーションやインクルージョンということを日本の文脈で真に花開くためには何が必要なのだろう、という議論と、まさに通層低音を持っている話だ。そして、「ぶんどり合戦」の現実をしっかと見続けながら、一方で「よりまし論」を「根元論」へと昇華させるポイントを求めて暗闇の中をまさぐっている自分がいる。ただ、まだ現時点ではどこに「一筋の光」があるかわからないので、途方に暮れていたのだ。でも、とみたさんは最後に、

「途方にくれてないで、もう少し、議論と思考を楽しんでくださいな」

と愛の鞭!?(笑)。
そうですね、ステップは踏み続けることによって、どこかに通じる、と村上春樹もどこかで書いていましたっけ。じっと立ち止まってないで、今日もとぼとぼ、かつちょっと楽しみながら、議論と思考のステップを踏み続けてみようと思います。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。