スタートラインに立ってみたものの・・・

 

ようやく出張モードから正常モードに戻りつつある。とはいえ、今月はあと2回、出張はあるのだけれど・・・。

出張が続いていると、ものをなくしたり、部屋が散らかったり、で段々テンションも下がってくる。今回、産まれてはじめて手帳をなくしてしまい、カリフォルニアのホテルと飛行機会社に電話をかけたのだけれど見あたらないようで、結構ショックを受ける。まあ幸いに、最近のアポイントメントの大半はメールでやりとりしているので、これを機にグーグルカレンダーに打ち込んでおいたから、ほぼカバーできるだろう。ただ、もしも漏れていたら・・・と思うと恐ろしいのだが・・・。

あと、昨日は部屋を片づける。アメリカの荷物、だけでなく、出張した際の資料や、原稿を書くために持って帰ってきた資料など、ぐっちゃぐちゃになっている。昔は似非文士気取りで「こういう無秩序がよい」なんて思っていた阿呆な時期があったのだが、結局のところ、僕自身は物理的整理整頓なくして、頭の中も整理整頓されないようだ。この春休み中に報告書1本、教科書のある節を二本、書くことになっていて、出張も多いからボヤボヤしておれないのだが、何だか部屋も汚くて、まったくこの間やる気が出なかった。そこで、ちゃっちゃか整理する。あと、研究室の資料を今から片づけたら、ようやく原稿への臨戦態勢が整いそうだ。残された時間も後わずか。こりゃあ、精力的にならなければ・・・。

で、部屋の掃除をしていたら、ブログに取り上げようと思っていた本を発見。今もそれについてどう考えてよいか、考えがまとまらない箇所がある。

「雇用機会の拡大にしても、職業訓練機会の拡大にしても、年金制度や奨学金制度の充実にしても、要するに『金が要る』ということである。
だから、金が要るんだよ。みなさん、最後にはそうおっしゃる。だが、それが『金があれば社会問題のほとんどは解決できる』という思想に同意署名しているということにはもう少し自覚的であった方がいいのではないか。」(「狼少年のパラドクス-ウチダ式教育再生論」内田樹著、朝日新聞社、p50)

この「『金があれば社会問題のほとんどは解決できる』という思想」については、ウチダ先生はもっと辛辣に次のようにも述べている。

「『金で買えないものはない』と豪語するグローバリストと、『弱者にも金を配分しろ』と気色ばむ人権派は、教育に関わる難問は『金で何とかなる』と信じている点で、双生児のように似ている。
日本の教育は『金になるのか、ならないのか』を問うことだけがリアリズムだと信じてきた『六歳児の大人』たちによって荒廃を続けている。どこまで日本を破壊すれば、この趨勢はとどまるのであろうか。
私にはまだ先が見えない。」(同上、p91)

大学で学生達を見ていても、あるいは僕自身が山梨に引っ越すまで足かけ10年続けていた高校生相手の予備校講師の経験からも、「金になるのか、ならないのか」を自らの行動規範にする若者が増えていたり、それを助長する「六歳児」戦略が大学側や社会の側にも蔓延しているような気がする。そういう意味では、『六歳児の大人』の視点が、日本をとことん荒廃させている、というウチダ先生の視点はシビアに現実を射抜く分析である。

この後半の段落には深く「同意署名」出来るがゆえに、前者がグサッとささっている。

自立支援法に関する話をする際、制度が出てくる枠組み分析をする中で、「もとはと言えばお金がないというのが法制定の源にあった」「1割負担というのは、そういう意味では、なけなしの障害者の金を巻き上げる部分もある」などということを、多くの場合口にする。そして、精神障害者への福祉のように本当にこれまでチョボチョボの予算しか付かなかった分野については、「真っ当な退院支援にこそもっときちんとした財源を」を主張している。その前提の上で、ウチダ先生に言われて、自分自身への二つの問いが浮かぶ。この僕は、はたからみたら、「『弱者にも金を配分しろ』と気色ばむ人権派」とカテゴライズされるのだろうか? そして、「『金があれば社会問題のほとんどは解決できる』という思想に同意署名している」という点で、「『金で買えないものはない』と豪語するグローバリスト」と「双生児」のように準拠点が同じなのだろうか? この二つの問いが、僕を揺さぶっているのだ。

「気色ばむ人権派」という言葉で、ウチダ先生が言わんと意図していることが何となく推測できる。僕もこのブログで書いているが、“You are wrong!”という語法の裏には常に“I am right!!”というメタメッセージが潜んでいる。このメッセージ自体、自身の枠組みに対する無根拠な確信に基づいていたり、しかも間違っているのは「お金の使い方」である、と言う点で、正しいお金の使い方を私は知っている、という不遜な物言いをしていたりする、という構造的要因をはらんでいるのだ。自身の知に対する無批判と、批判しているはずの当の枠組みの中での解決策を求める、という点で、ウチダ先生がよく挙げるフェミニストと人権派のような「批判勢力」は、一定の批判は出来ているけれど、結局万年野党的批判であり、文字通りの意味でのラディカルな(根元的)批判ではない、という指摘にはうなずける。

ただ、問題は、それは自分以外の人に対する分析なら、なるほどねぇ、と思うのだが、当の私がその矛先だとしたら・・・ということなのだ。

正直、この点については、現時点でどう考えてよいか整理できていない。一方で、「限られたリソースのぶんどり合戦」、という身も蓋もないリアリティの中で、「よりまし論」を考えない限り、今日明日の状況は改善されない、という状況がある。だがもう一方で、そういう「ぶんどり合戦」に身を置いている限り、「社会的弱者」はその枠組み内での「戦い」においては「弱者」であるが故に構造的に負け続ける、という分析も、頷ける。では、その枠組みから脱した上で、その枠組みを超えて、教育・福祉・女性政策に限らず、日本における諸々の「荒廃」を乗り越えるためにどうしたらよいのか?

ここからは、人の枠組みではなく、自分の枠組みで考えないといかんような気がしている。とはいえ僕は、「考えないかんなぁ」というそのスタートラインにようやく立てただけなのだけれど・・・。

そして、僕は途方にくれる・・・

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。