昨日は大学が停電、おまけにこの1週間、大学のサーバーは保守点検中のため、ネットが接続できない。よって一昨日などは、ネットにつながなくてもよい(むしろつながない方が良い)お仕事、すなわち採点業務に没頭する。200人分の出席と点数をエクセルでつけて、一定の基準で評価を割り出すと、あれまあ綺麗に分布した。結果として基準が間違いではなかったことが証明されて、一安心。でも、結構これをやるのは毎年の重労働で、一昨日も停電前の霜取りをしながら、クーラーをかけてパソコンの前で出席簿を整理しながら6,7時間格闘していると、肩がバッチリ凝ってくるのがわかる。
で、昨日はおうちで一日とある業務に関連した「インシデントレポート」の執筆。私が関わったとある調査でとんでもない失敗が起こってしまった。それを繰り返さない為に、何がどういう脈絡でケアレスミスの積み重なっていった結果、重大インシデントになったのか、を一日かけて整理する。関係者へのヒアリングは済んでいたものの、自分も含めた問題点を「反省」するレポートを書くのには、気力も体力も本当に必要だ。すごく大変だったが何とか原案を書き終えられたのも、次の本が指針となってくれたからだ。
「ある失敗を次の失敗の防止や成功の種に結びつけるには、失敗が起きるにいたった原因が経過などを正しく分析した上で知識化して、誰もが使える知識として第三者に情報伝達することが重要なポイントになります。他人の失敗のみならず、自分の失敗体験から何かを学ぶ時にもそのままいえることで、失敗情報を知識化することは、いわば『失敗学』の大きな柱の一つです。」(畑村洋太郎『失敗学のすすめ』講談社文庫、p92)
元はといえば、失敗の結果、大きな迷惑をかけてしまった相手の方に対して、責任者の一人として私自身が謝罪の電話を入れた時のこと。「直接お詫びに伺いたい」と申し出る私に対して、その相手の方は、「関わった関係者個々人がバラバラに謝罪にくるのではなく、きちんと組織的に総括してほしい」と言われた。「それは、今後同じようなミスを繰り返さないための総括と組織的対応ですか?」と聞いてみると、「それが必要だ」という相手の方の答え。怒り心頭のはずなのに、コミュニケーション回路を閉ざさず、きちんとこちらのすべき事を指し示してくださったのには、改めて相手の方に深い敬意を抱いた。と共に、そういうインシデントレポートをきっちりまとめることは、研究者として当該調査に関わった人間の、最低限の責務だと判断。だが、そういう分析をしたことがなかった私にとって、「失敗学」の提唱者の畑村さんの本は、本当に分かりやすく、すべきポイントが明晰に整理されている一冊だった。
「小さな失敗という水が貯められていく過程で放水という防止策を打てば、決壊などの問題が生じる心配はまったくありません。これを行わずに徐々に水を貯め込んでいくと、最も弱い部分にやがて小決壊が始まります。それでもなお放水を行わずに放置しておくと、ある閾値に到達したときについには大決壊が始まり、破滅に向かって一気に突っ走る、取り返しのつかない大失敗に成長してしまうのです。」(同上、p88)
そう、今回インシデントレポートを書く中で見えてきたのは、節目節目の防止策が打てる「はず」だった、ということだ。ただその手続きを踏まず、また「最も弱い部分にやがて小決壊」が生じた時に何の対応策も打たずに「放置してお」いた結果、「ある閾値」を超えて「大決壊が始まり、破滅に向かって一気に突っ走る」に至ったのである。その過程をつぶさに整理し、記述する中で見えてきたこと。それは、そういう「つもり」「はず」で集団的な仕事をすることの危険性と、責任体制が不明確であることの怖さ、であった。責任体制が不明確であった為、問題発生当初、インシデントの直接の引き金となった個人が責任感を感じ、まわりもその人の個人的ミス、と見ていた部分があったからだ。つまり、「決壊」原因が個人因子に矮小化され、組織的「防止策」の不全について、議論がなされてこなかったのである。
「一つの失敗の原因をたどっていくと、複雑な階層性が存在していることに気づきます。ここで注意しなければならないのは、階層の上にいる者は自分に責任がおよぶことを恐れて、失敗の責任を下の者に転嫁することがよくあるということです。最近頻発している医療ミス問題でも、病院側が管理の不備、経営の問題を認めず、一看護婦のミスとして問題を処理しようとするケースをしばしば見かけます。階層性に存在するこうした問題を理解しないことには、やはり真の原因が見えてこないのがまさに失敗の持つ特性のひとつなのです。」(同上、p65)
今回のインシデントでは、上司にあたるポジションの人々のサボタージュや責任転嫁はなかった。だが、直接の引き金になった個人が、「問題の責任は全て私にあります」という善意志を持つ人であったばっかりに、抱え込んでしまい、そこから組織に情報が流れず、インシデント発生後の対応が後手にまわってしまう、という悪循環に陥っていた。「一つの失敗の原因をたどっていくと、複雑な階層性が存在している」にも関わらず、失敗を犯した個人がそれを自責の念から一人でせき止めてしまうと、「小決壊」の根本的解決にいたらず、「閾値に到達し」「大決壊」へとつながってしまう。本来すべき「複雑な階層性」に潜む問題の根元的部分まで検討されないから、結果として「次の失敗の防止や成功の種に結びつける」ことが出来ないのだ。すると、また同じ問題を繰り返す事になりかねない。このような「人災」を防ぐために、畑村氏は次のような提案をしている。
「失敗を知識化するための出発点となる『記述』は、文字どおり失敗経験を記述するという意味です。このとき、『事象』、『経過』、『原因(推定原因)』、『対処』、『総括』などの項目毎に書き表すと、問題が整理されて失敗の中身もクリアになります。(中略)記述した失敗除法は、次に『記録』をしなければなりません。前者は当事者の覚え書き程度のものでも構いませんが、それらをデータとして利用しやすいように整理する作業が『記録』です。失敗情報を手軽に使える知識にするには、必要に応じてすぐに検索できるように工夫をすることも必要です。」(同上、p117)
この畑村氏の整理に基づいて、「記述」された資料も用いながら「記録」を作成しようとしたので、しんどかったが、何とかレポートを書き上げることが出来た。畑村氏が言うように、「、『事象』、『経過』、『原因(推定原因)』、『対処』、『総括』などの項目毎に書き表すと、問題が整理されて失敗の中身もクリアにな」るのだ。ゆえに、組織として同様のケースに臨む際には今後どうすべきか、という提言も、クリアになった失敗の中身に添って構築すると、evidence-basedな(証拠に基づく)説得力のある提言が組み立てられる。おかげで、冷静にレポートを書くことが出来た。
失敗は注意していたって、多忙や偶然の重なりの結果、誰の身にも起こりうる。まだ大学院生だった頃、私が直接の引き金になり、何人かの人を巻き込み、ご迷惑をかけた「重大インシデント」を発生させたことがある。その際、私は畑村氏が描く次のような状態だった。
「失敗した本人にしても『どんな失敗でも悪』という凝り固まった考えから抜け出せず、実際にミスから事故やトラブルを起こしたときには、現実を直視できないほどにパニックに陥ったり、落胆したりすることがあります。平常心を失ったそんな状態では、失敗情報を正しく記述し、分析・検討して知識化する作業などできるはずがありません。」(同上、p131-2)
そう、問題発生時には、まさに私自身が「現実を直視できないほどにパニックに陥った」のであった。私に怒りをあらわにした相手に対して、「平常心を失った」私は、ひたすらごめんなさいと謝り倒していた。だが、相手の怒りは収まるどころか深化し、ついに全く無視されるに至った。私自身、一種のPTSD状態に陥り、相手の車を見るだけでその現場から逃げてしまう日々が続いていた。「申し訳ない事をした」という思いと、「確かに私も悪いが、なぜ謝っても許してもらえないのか」という思いがない交ぜになり、個人的に相手を恨む、という、生まれて初めてに近い経験もした。
だが、今から思えば、私自身が「『どんな失敗でも悪』という凝り固まった考え」に固着していたのが、事態を悪化させた理由にあると考える。「一つの失敗の原因をたどっていくと、複雑な階層性が存在している」はずなのに、私は「一つの失敗の原因」をずっと私の無限責任と考え、地獄のような悪循環回路に陥っていたのだ。そうではなく、構造的要因である「失敗情報を正しく記述し、分析・検討して知識化」する「平常心」を意識的に保つことが出来れば、あのような結末に至らず、もっと事態が打開していたかもしれない、と悔やまれる。
本当に悪い、すまない、と思う時、謝罪の気持ちを持つのは勿論大切だ。だが、それを再発防止に向けた努力につなげない限り、真の意味での謝罪にはならない、と私自身は考える。ごめんなさい、ごめんなさい、とひたすら子犬のように眼をウルウルさせて許しを請うたところで、インシデントの本質をつかみ取らない表層的な「謝り倒しモード」は、問題を矮小化させるだけで、余計相手との関係を悪化させる可能性もある。7年前に親しくさせて頂いた方とは、残念ながら未だに絶交状態にされてしまっているが、今回の対象者には同じ失敗を繰り返したくない。本当の謝罪とは、二度と問題を繰り返さないように個人・組織としての再発防止策を徹底的に構築することを通じて、つまり実践を通して個人・組織が「変わる」ことでしかあり得ない。そういう想いが、一日パソコンに向かって再発防止策を練り上げる気持ちを支えていた。