どっちにも向けない事態

 

甲府は梅雨が明け、いよいよ夏日が続いている。我が家は鉄筋コンクリート住宅最上階(といっても3階)ゆえ、めちゃくちゃ暑い。しかも、窓が北と東にしかないので、風通しもあまりよくない。夜、外は涼しくとも、部屋は30度以上、むんむんしているので、あまり望ましくはないけど、クーラーなしにはやってられない。部屋を閉め切ってクーラーをつけっぱなしで寝ると、熟眠感がないばかりか、どうも朝の目覚めが悪い。クーラーをかけない時期は5時半とかに起きていたのだが、もう最近は毎日7時過ぎ。ただ、夏バテしたくないので、まあしゃあないか、とも思う。

ようやく夏休み期間なので、色々溜まっていた仕事を片づけていく。と同時に、今週はこってりジムに通う。月曜日はマシンで、昨日と今日はプールでこってり汗を流す。おかげさまで今、76キロをたまに切る時も。しっかり食べてはいるので、だいぶ体重減が馴染んできたようだ。で、月曜日にルンルンマシンで運動しながら、の、「ながら読書」のお供に持って行った本に、唸りながら運動していた。

「新保守主義政権のもとで、市場主義にもとづく諸施策が矢継ぎ早に講じられた結果、『市場の力』が暴力と化し、社会的弱者をしいたげる傾きが際立ちはじめた。それらに対して、欧州諸国の選挙民はいっせいに『ノー』といったがために、中道左派政権の登場が相次いだのである。暴力と化した『市場の力』の犠牲となった弱者みずからが『ノー』とさけんだのはむろんのこと、ノーブレス・オブリージュ(貴族など高い身分の者にはそれに相応する重い責任・義務があるとする考え方)をわきまえる欧州諸国の中産階級の多数派もまた、おなじく『ノー』といったのである。」(佐和隆光『市場主義の終焉』岩波新書、p24)

すでに皆さんもお気づきの通り、これは我が国の先般の参議院選挙の結果の整理としても、充分通用する。民主党が中道左派といえるか、「ノーブレス・オブリージュ」の精神を我が国の中産階級が持っているかどうか、という2点は議論が分かれるところだが、「『市場の力』が暴力と化し」た、と多くの選挙民が実感し、「いっせいに『ノー』といった」が為に、自民党が歴史的惨敗なる事態に追い込まれた。以上は、ここ10日ほどのマスコミの論調と同じで、何ら目新しい筋書きではない。ただ、この本が書かれた年度が注目に値する。欧米で中道左派政権が次々に誕生したのが、98年から2000年にかけて。そして、この本は2000年10月に刊行された。ヨーロッパで10年前に起きていたことに、今強い類似性がある、という事が何を意味するのか、が実に気になった。さらに、気になったのが次の部分。

「市場主義者、ないし保守主義者が、失業者をはじめとする社会的・経済的弱者を路頭に迷わせよ、といっているわけではむろんない。セーフティ・ネット(安全網)としての福祉制度導入の必要性は、たとえそれが必要悪であるにせよ、彼らも認めるにやぶさかではない。しかし、セーフティ・ネットという言葉から読みとれるように、経済の効率化をはかるためには、弱者は切り捨てられてしかるべきであり、切り捨てらえrた弱者に対して、最低限度の生活を保障するに足るセーフティ・ネットを用意しておきさえすればよい、との考え方の奥底には、弱者救済のセーフティ・ネットを用意するほうが、弱者を雇用して賃金を支払いつづけるようりも社会的コストは安くてすむ、との『強者の倫理と論理』が横たわっていることを見落としてはなるまい。」(同上、p38)

「弱者救済のセーフティ・ネットを用意するほうが、弱者を雇用して賃金を支払いつづけるようりも社会的コストは安くてすむ」というのは、ある意味えげつない言明だ。だが、一定の説得力を持っている。日本だって、90年代以後、規制緩和(=最近では規制改革というそうですが・・・)のかけ声の下、護送船団方式・終身雇用システムを解体しにかかったのである。福祉国家についてちょっとだけ考えた以前のブログでも、大沢真理氏の次の部分を引用した覚えがある。

90年代の日本の社会政策は、男女の就労支援と介護の社会化という一筋の両立支援(スカンジナビア)ルート、労働の規制緩和の面では市場志向(ネオリベラル)ルート、不況のもとで女性と青年を中心に非正規化が進み労働市場の二重化が強まるという意味の「男性稼ぎ主」(保守主義)ルートを混在」(大沢真理 2007 『現代日本の生活保障システム』 岩波書店:89)

「規制緩和」による「労働市場の二重化」という事態は、「弱者を雇用して賃金を支払いつづける」(=完全雇用)というルールから、「弱者は切り捨てられてしかるべき」というルールへ、日本社会がゲームのルールを変えてしまったことを意味する。

しかも、小泉政権の「三位一体の改革」以後、社会保障費全体の圧縮が加速し、「弱者救済のセーフティ・ネット」たる生活保護の部分への締め付けも相当厳しくなっている。「社会的コスト」を更に「効率化」しようとした政策のしわ寄せが、ご案内の通り、様々な「格差」として表面化し、選挙の際の有権者の投票行動の大きな要素になったと言われている。

ただ、ここから実は自分の考えがまだまとまっていない部分に突入するのだが、多種多様な「格差」を、「格差」という切り口から一元的に考えていいのか、という問題が、今の僕にはまだ考え切れていない。具体的に言えば、前回の選挙では、地方の一人区で自民党が負けまくった。この背景には、民主党への積極的応援、というより、安部政権にお灸を据える、という意味合いが大きかった、とマスコミでは報じられている。その背景として、小泉構造改革で公共工事が激減し、地方に大打撃をもたらしたからだ、とか、六本木ヒルズの金持ちと地方の格差は広まるばかり、という言説が流れる。だが、ここで問題なのは、じゃあケインズ型福祉国家でいいのか、と言われると、僕は口ごもってしまうのだ。橋脚を一本作るだけで1億円くらいする。山梨でも長野でも、ウルグアイラウンド対策予算だか何だかが農水省から出されていて、農道を造るのにじゃぶじゃぶ金がつぎ込まれていた、とも聞く。そういった「公共工事」を増やすこと「しか」格差の解消方法はないのか、というと、それも違うと思うのだ。

このときに、これも先述のブログでひいた、ある言葉を思い出すのだ。

「『いくつかの国(たとえば、アメリカ)を除いて、ほとんどの社会サービスの成長は公共セクターのなかで起きている』という先進諸国の経験則を、われわれは知っている。ここで社会サービスとは、『保健、教育、一連のケア提供活動(たとえば、保健や家事支援)』が含まれ、これはまさに、家計で生産される福祉サービスの外部化のことである。ところが日本は、未だに、先進国の経験則に反した報告に進もうとする典型的日本人好みの選択をしようとしているようにみえる。しかしながらそうしたアメリカ型の方向では、労働者保護立法を緩め取り去り-いわゆる労働市場の規制緩和を図ることによって-賃金格差を拡大させでもしないかぎり、日本では早晩行き詰まるであろう。」(権丈善一 2004 『年金改革と積極的社会保障政策』慶応義塾大学出版会:162-163

そう、行き詰まりを感じて現政権に批判票を投じた「典型的日本人」。だが、公共セクターも、土建型のハコモノ主義では成り立たなくなっていることも、まった一方で事実。ゆえに、「市場主義」や「格差」で「行き詰ま」ったからといって、ケインズ型、日本ではつまり田中角栄型のバラマキ福祉国家には戻れない。道路工事で誰も通らないところにでも警備員を雇うのは、ある種「弱者を雇用して賃金を支払いつづける」政策だったが、そういう事まで「格差是正」のために必要か、と言われると、それはクビをかしげてしまう。では、最低限のセーフティ・ネットだけで良いのか、と言われると、そうでもない。月並みな結論だが、「公共セクター」の予算配分を、「家計で生産される福祉サービスの外部化」である「社会サービス」へ重点化する以外には、活路が見えてこないような気が、現時点では僕には感じられる。ただ、ここで更に問題なのは、公共工事の削減で社会的弱者になった人々の中には、大沢真理氏が整理するところの「男性稼ぎ主」型そのものであり、子育てや家事労働などを女性に任せてきて、それを仕事にすることが得意ではない人々も少なからずいる。その人々(しかもある程度中高年齢)が、「家計で生産される福祉サービスの外部化」の現場で何らかの貢献が出来るか、というと、その現場は不得意だから・・・と尻込みする層も出てくるのではないだろうか。

田中角栄型の政治に戻るのはあまりに効率が悪い。だが、小泉改革路線ではあまりに経済の効率化が進みすぎ、格差が耐えきれない。このどっちにも向けない事態に、福祉国家の理論が何を提供してくれるのだろうか。私たちはどこの先進例から、何を学べるだろうか。「第三の道」は、本当に光り輝いた道なのか。日本流の何らかの「隘路」があるのか? その辺を注視しながら、ヨーロッパのこの10年の動きも、少し追いかけてみる必要があるように感じ始めている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。