勧善懲悪はやめませんか?

 

何だか昨夜、寝る前にふと気になったこと。

和泉某とかいう、その昔ワイドショーを賑わせた狂言師の話題が朝のテレビで流れていた。スポーツ紙が「離婚騒動」を報じたので、マスコミ各社が彼を追いかけた。そんな事実はありません、と否定する和泉某氏や彼の母親に対して、「なんでこういう騒動になったと思いますか?」と食い下がるマスコミ。「それはわかりません」的なことを、母親が答えていた

この中で気になるのは、「なんでこういう騒動になったと思いますか?」というマスコミの聞き方である。この質問は、「こういう騒動になった原因は個人のあなたにあるに決まっている」という断定に基づいて、「どうして騒動になったか総括せよ」と迫っている、と思えるのだ。「わからない」「知らない」と答えても、「事実関係を否定した」、と整理できるし、「それはマスコミが勝手に騒いだからだ」と答えると、「マスコミに責任転嫁した」と言える。つまり、どう答えても、「離婚騒動」報道そのものの誤報性について全く検証されず(というよりそれを所与の事実として)、その報道と向き合わない個人和泉某が悪い、という伏流するメッセージを倍加させるだけなのだ。ゲームのルールはマスコミが最初から決めている。何だかこれって極めて分かりやすいワンサイド・ゲーム。またの名を、集団いじめ、って言うのではないのだろうか。

私はこのブログで、自身の偏狭な視野の問題を時折考えてきた。「○○は悪い」と責め立てる時、その背景にある「私は悪くない」という“You’re wrong, I’m right!”の語法の独善性について、だ。この他責的語法は、つまりは無責任な論理そのものである。その昔、テレビが大好きで、小学校の夏休みなど12時間近くも見ていたタケバタは、無批判にその枠組みを受け入れてしまっていた。もちろん、だからテレビが悪い、なんていうと、その論理そのものに取り込まれてしまう。責任は、それ以外の考え方を知ろうとしなかった私自身にある。だから、30も超して、ようやくその偏狭な視野という枠組みそのものと向き合い始めているのだ。

この偏狭な視野って、勧善懲悪的視点、とも言える。悪い奴は見た目はどうであれ悪いに決まっていて、嘘を言い、とんでもない奴として描かれる。そういう奴がどんな言い訳を言っても、「こいつは悪い」というメッセージが倍加されるだけなので、決してそれ以外の選択肢を見ているものが選ぶことはない。時代劇なら「お話」の空間であり、面白かった、で済まされるが、ワイドショーだけでなく報道番組も、最近とみに「お話」化しているような気がする。今更言うのも何だけど、大衆迎合的で一面的で平板な「わかりやすさ」ではない、「わかりやすい」報道もあるはずだ。事実を丹念に調べて、整理した上で「わかりやすく」報じる事も可能だと思う。でも時間がない、視聴者はそこまで求めていない、という言い訳を用意して、マスコミはどんどん勧善懲悪的視点に特化している。そして、その薄っぺらさに気づいた視聴者は、飽き飽きしてテレビの前から立ち去り、残ったお客様の為にどんどんその薄さに拍車をかけたマスコミに、ますます薄っぺらさを感じた読者は(以下、くり返し)。

どこの新聞社でも放送局でも良い。「うちはそういうチキンレースには加わらない」と言ってくれるメディアがいたら、と思う。広告収入の事を考えたら、新聞・TVは期待薄で、せいぜい週刊誌レベルかなぁ。今のメディアは「視聴者は馬鹿だから(そしてマスコミの俺らはそうではないから)」という前提に囲い込まれているような気もする。もう少し、視聴者を信用してくれてもいいし、その前に、まず他人を批判する前に、ご自身のスタンスにこそ、「批判的」な視点を持って貰えれば、と思うのだけれどでも競争率の高いマスコミに入る人ほど、その枠組みを無批判に受け入れないと、やっていけないのだろうか。少なくとも僕は、そんなチキンレースに加わらない週刊誌があれば、年間購読料を支払って読んでも良い。もちろん、無批判に信じる訳ではないけれど。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。